サラリーマン小説の系譜

わたしの人生案内

源氏鶏太さんのエッセイ集『わたしの人生案内』*1(中公文庫)を読み終えた。
本書は中公文庫のシリーズ「人生の一冊」として、昨年11月に出された。『わたしの人生案内』『わが文壇的自叙伝』の2冊の著書から編集されたエッセイ・アンソロジーである。「初出一覧好き」としては、収録各篇の初出情報がまったく記されていないのが不満だ。
この本を読もうと思ったのは、先日源氏鶏太原作の映画2本を偶然立てつづけに観たゆえで(→9/4条)、そこでは、源氏鶏太作品の愛読者というほどではないから、べつに再評価せよと気負うつもりはないけれど、高度経済成長期のサラリーマンたちを支えてきた諸制度が見直しを迎えている現在の目で源氏鶏太のサラリーマン小説を読めば、どのようなことが見えてくるのか、そんな色気がないわけではない」と書いた。
獅子文六こそ、最近のブームのようなもので、古本屋に行っても、むかしあれほどあった文庫本がすっかり見られなくなっているが、いっぽう石坂洋次郎石川達三源氏鶏太といったあたりのかつての人気作家の文庫本はまだまたたくさんお目にかかることができる。たくさんありすぎて、どれを読めばいいのかわからないのである。
本書を読みながら、いま源氏鶏太のエッセイが復刊される意義はどこにあるのだろうと、あれこれ考えてみたものの、妙案が浮かばない。サラリーマン小説の書き手として、サラリーマンの心得のような文章を多く求められたとおぼしく、その手の人生訓がいくつか収められている。
それらを読むと、終身雇用制を前提としたサラリーマンの処世訓であったり、男女雇用機会均等法など考えられなかった時代のOL論だったり、いまの時代とのズレが大きいと感じざるをえない。ただいっぽうで、やれフリーターやらニートやら、働くことの価値観が大きく変貌を迎えているいま、山口瞳さんの本と同じく、源氏鶏太作品も見直されてもいいのかもしれないと思えてくる。
高度経済成長期における仕事一筋の猛烈社員を考えることは、定年を迎え仕事から離れたサラリーマンの老年や、裏で彼らを支えた妻や子供らのことを考えることにつながる。サラリーマン小説とは、老年小説や家族小説と密接に関係するのである。本書を読むと、源氏さんが、定年を迎えたサラリーマンたちの老後の暮らし方について、いち早く注目していることに驚くとともに、当然の成り行きと納得もしたのである。
その伝で、現代こうした書き手は誰かと見回せば、やはり重松清さんに指を屈する。重松清源氏鶏太には共通性があるように感じる。源氏さんは「我慢しなさい」というエッセイでこういうことを書いている。

私は、この世間には、上役から憎まれていると思い込んで、その日日を憂鬱に過しているサラリーマンがすくなくないように思う。私は、そういうサラリーマンに、我慢しなさい、といいたい。が、ただ我慢するのではない。その上役が明日にも交通事故で死ぬかも知れない、という期待を胸に秘めてである。ちょっとした悪役気分になれて、以後、その上役を見る眼が違ってくるに違いない。(161頁)
あくせくと働くサラリーマンたちには、上司や部下との人間関係がうまくゆかず、日々恨み辛みがたまってゆく人々がたくさんいるに違いない。そんな人々に向け、上役の死を想像すれば我慢もできるとメッセージを発する。サラリーマンの怨念は小説になりやすい。
源氏さんには、サラリーマン小説とは別に、自ら「摩訶不思議小説」と名づけた、サラリーマンの怨念が幽霊となって登場する幻想小説がある。それらが生み出された経緯については、本書所収「摩訶不思議小説」に詳しい。以前わたしは、そうした短篇を集めた『招かれざる仲間たち』(新潮文庫)を読んだことがある(→2004/12/7条)。
結局このたぐいの幽霊小説も、サラリーマン小説の裏返しであるわけで、それであれば重松さんも同じような着想で『送り火』という短篇集を出している。わたしは『招かれざる仲間たち』の感想のなかで『送り火』に言及した。
源氏―重松という系譜関係がはっきりと意識されたいま、わたしが望むのは、源氏さんが直木賞を受賞した「英語屋さん」など初期作品を集め*2、解説を重松さんが書いた作品集をどこかの文庫が企画してくれないかということである。

*1:ISBN:4122044502

*2:源氏鶏太が「英語屋さん」で直木賞を受賞した前後の時期については、大村彦次郎『文壇栄華物語』(筑摩書房ISBN:4480823395)の第七章がとても面白い。