第75 「最後の気まぐれ美術館」を歩く

同潤会バス停

「暑くなる前に」と考えているうち梅雨に入り夏に突入した。目標を「涼しくなってから」に切りかえる。歩きたくとも、どうにも夏の散歩はつらいから。9月に入りちょっぴりしのぎやすい日が多くなってきたので、いよいよ実行に移すことにする。目標は「一之江・申孝園」である。
「気まぐれ美術館」最後の一文が「隅田川両岸画巻」の版画家藤牧義夫を取り上げたものであることを知ったのは、『芸術新潮』1994年11月号(特集「今こそ知りたい! 洲之内徹 絵のある人生」)においてであり、その後この文章が収められた最終巻『さらば気まぐれ美術館』*1(新潮社)を入手し、確認することができた(→2004/5/19条)。
最後の文章は「一之江・申孝園」と題され、長らくモデルとなった場所が不明のままだった「隅田川両岸画巻」第一巻が江戸川区の一之江にある日蓮宗の宗教法人国柱会の本部施設「申孝園」を描いたものだったことを明らかにし、同所を訪ね歩いた内容である。絵に描かれた場所を訪ねるという、「気まぐれ美術館」に特徴的な文章がはからずも最後の文章になってしまったことに奇縁を感じ、そうしたたぐいの文章が好きな私としては、申孝園という場所に強く惹かれる原因となった。
申孝園を地図で探すと、江戸川区一之江六丁目に所在することがわかる。わたしにはなじみの薄い地域である。周囲に何かないものか、地図を広げ目を凝らしていたら、近くにもう一ヶ所、かねがね訪れてみたいと思っていた場所が目に飛び込み、セットで散歩をしようと、以来計画を練ってきた。その期がようやく到来したことになる。
その場所とは「同潤会」。住所は江戸川区中央二丁目。むろん、ここに同潤会アパートがあるわけではない。ネットだったろうか、「同潤会」という名前のバス停が江戸川区にあることを知り、それから気になっていたのだ。
わたしの町から行くとすれば、最寄駅前からJR新小岩駅行きの京成バスに乗り、そこから都営バスに乗り換えれば、その路線(新小29)は「同潤会」のバス停を通る。意外に簡単に、そして早く、一時間足らずで「同潤会」に降り立った。
地図を見るとバス停のあたりは、方形の区画の中央を南北に走るバス路線(=同潤会通り)を縦の中心線として、複数の東西に走る路地によって区切られた横長短冊形の区画に整理された、たとえれば江戸吉原のような、周囲とは明らかに異なる区域として目立つ。名前から容易に想像できるのは、同潤会によって行われた分譲住宅の存在。同潤会の分譲住宅としては、以前赤羽を歩いたことがある(→2004/3/28条)。
そのときも参照した内田青蔵さんの同潤会に学べ―住まいの思想とそのデザイン』*2(王国社)をひもとくと、昭和11年から12年にかけ、東小松川に17戸の分譲住宅が建設された記録がある。前記「同潤会」はこれに違いあるまい。同潤会の分譲住宅事業のなかでは、最末期に開発された地域に属する。
後述する申孝園が昭和20年3月10日の空襲で焼失したとあるので、ここも戦災を蒙っていることが予想される。分譲当時の住宅をいくつか残していた赤羽住宅地ほどの雰囲気を期待せず訪れたところ、予想どおり、同潤会通りに商店街が広がり、東西の路地沿いに住宅が並ぶごく普通の住宅地となっていた。
同潤会」という名前を意識しないかぎり、格別の発見はないし、「同潤会」を意識していたとしても、整然と東西南北の道路に区画された住宅地である以外、そこから同潤会の思想を汲み取ることは難しい。路地も狭いため、赤羽のように桜の街路樹によって住宅地としての美しさが引き立てられているわけではない。
同潤会路地の大衆酒場しかしながら、残っていた青山・江戸川・大塚女子・清砂通り四つの同潤会アパートが取り壊されてしまったいま、都内にわずかに「同潤会」の名をのこす貴重な場所であることで、同潤会ファンとしては訪れる価値がある場所だと言えよう。おそらく地元の人しか入らないだろうと思われる路地奥にある居酒屋の写真を一枚撮ってきた。
さて、同潤会通りをそのまま南下すると、北西から東南に斜めに伸びる「今川街道」という比較的大きな通りにぶつかる。そこから今川街道沿いにしばらく歩けば最終目的の一之江に着く。この通りは「松江大通り商店街」という歩道に屋根のついた寂れた感じの商店街が長く続く。付近の住所も松江なのだが、この地名は島根の松江とは関係なく、おそらく「小松川」と「一之江」からそれぞれ一文字ずつを取り出し、つなげたものなのではあるまいか。古本屋が一軒くらいあってもよさそうな商店街なのだが、わずかに、シャッターを閉ざした芦田書店という古本屋とおぼしい店構えの本屋があるのみ。
城東電車の軌道?その芦田書店から少し今川街道を歩くと、一之江親水公園と交差する。一之江境川という細流沿いが遊歩公園化されている。目ざす申孝園はこの境川沿いにある。今川街道から親水公園に入る場所に、鉄道の軌道の切れ端が川の上に渡され、モニュメントとなっていた。碑文には、これは城東電車の跡で、この今川街道に城東電車が通っていたこと、のち城東電車は廃線となり、この路線には都内初のトロリーバスが走ったことなどが刻まれていた。
城東電車といえば、永井荷風を想起する。郊外電車たる城東電車を利用して荷風はしばしば江戸川区を歩き、荒川放水路を「発見」した。川本三郎さんの「杉並線、王子電車、城東電車のこと」という一文(ちくま文庫『東京おもひで草』*3所収)によれば、城東電車は大正2年に設立され、同6年には錦糸町―亀戸―小松川を結ぶ本線が開通、昭和17年に市電に統合されたとのこと。
上の川本さんの文章の初出は『東京人』1997年1月号(特集「都電のゆく町」)である。同号には、小林泰彦さんの「都電遺跡調査団が行く。」というイラスト付きの一文も収められていて、都区内各所に遺る「都電遺跡」を地図に落とした興味深い内容となっている。このなかにはくだんの城東電車の軌道跡が描かれていない。してみればあの軌道は厳密な「遺跡」ではないのかもしれない。
さて申孝園とは前述のように、日蓮宗の在家信者による団体国柱会の本部がある場所のこと。国柱会とは、田中智学によって組織され、宮沢賢治石原莞爾も入信していた団体として著名だ。洲之内さんも書いているが、その「名称から連想されるような右翼団体ではない」石原莞爾国柱会との関わりについては、山口昌男『挫折の昭和史』*4岩波書店)の第6章「ダダイストのような将軍の肖像」、および花輪莞爾『石原完爾独走す』*5(新潮社)の第一部第7章「祈る将軍」に詳しい。
「悦可衆心」碑すでに洲之内さんが訪れた1987年の時点で、藤牧が「画巻」に描いた申孝園の宗教建築(申孝園は昭和6年完成、「画巻」は昭和9年制作)は戦災で失われていた。その文章「一之江・申孝園」では、申孝園に残された往時の写真と藤巻の絵を並べ、その同一なることを証明している。庭園の池に架けられた石橋や石碑のたぐいは場所を移していまも残り、やはり写真が「画巻」と併載されている。敷地内に足を踏み入れると、このうち『さらば気まぐれ美術館』にも掲載されている「悦可衆心」の石碑を見つけたので、それだけ写真を撮ってきた。
これだけの散歩なのに、申孝園を出たときには汗だくになってしまっていた。9月に入ったとはいえ、まだまだ残暑が厳しい。同潤会、申孝園を訪ねる散歩に、城東電車の遺跡(?)とも出会うことができた。知らない町をバスや徒歩で通るときのワクワク感は何にも代えがたく、東京という町は、目立たぬ町でも何かしら見るべきモノ・歴史を持っているから、歩いていてこれほど面白いところはないのである。