得な作家

たった一人の反乱

本を買い、買ったことを報告するだけにかまけていてはいけない。買った本を読むこと。当然それが次に本を買うための原動力となる。本を買うために時間をかけ、それを入力しサイトにアップすることにとらわれていると、読む時間を失うという矛盾。お祭りは終わりだ。そろそろ読書を楽しもう。
この夏休みには、読み切れなかったときそのまま電車本として移行できるエッセイ(だから必ずしも休みの間に読み切る必要はない)、いろいろな文章が入っているから気分転換ができるアンソロジー、それに夏休みに集中的に読みたい長篇小説各一冊ずつを携えてきた。
帰省してからというもの、お祭り騒ぎのように本を買い、その余韻に酔ってしまったせいか、肝心の読書が進まない。案の定エッセイには手をつけることができず、できるだけ読書時間を長篇小説読みにあてた結果、ようやく滞在最終日に読み終えることができた。今回読んだのは、丸谷才一さんの『たった一人の反乱』*1講談社文芸文庫)だった。
出張や長期の休みのたび、読書候補として書棚から取り出しては戻されるのを繰り返した本書だが、ようやく手をつけることができたのである。
防衛庁への出向を拒否して職場に居づらくなり家庭電機会社に転職した元通産省のキャリア官僚が主人公で語り手。妻を亡くしたばかりだけれど、旧友の仲介で雑誌モデルの若い女の子と仲良くなり、あれよあれよという間に彼女を後妻として迎える成り行きになってしまう。
その女の子の父親が美術を専攻する大学教授。しかし学園紛争のあおりをこうむり職をなげうってフリーになってしまう。また彼女の母方の祖母が元夫を殺害して刑務所に入り、出所したばかりで主人公宅に居候する成り行きに。
丸谷才一さんは得な作家だ。小説のなかにさりげなくもぐり込ませた小道具から、叙述的なトリック、通俗小説的な仕掛けに至るまで、「これはきっと物語の伏線に違いない」「何かのアレゴリーに違いない」と思わせ、一語だに小説のなかで無駄な働きはしていないと勘ぐらせてしまうからだ。
しかも読んでいくとそれらが決して空手形に終わらず、それぞれが本当に歯車のひとつとなりおおせているから唸らされる。主人公とモデルが近づくきっかけとなった、主人公の曾祖父による金時計の挿話から、主人公宅にある止まったままの掛時計。時計は本作品の重要な小道具となる。その小道具を巧妙に取り込んで繰り広げられる後妻の父によってぶたれる大演説は、本作品のクライマックスである。しかも演説は、まるで丸谷さんのエッセイを思わせる意表をついたアナロジーによってテーマが転々とする自在さで、読みごたえがある。
主人公が自宅に置く女中という大時代な人物設定も、現代小説として読んでいると不思議きわまりない存在でしかなく、「おかしな設定だなあ」と訝っていたのだが、のちに実はこれもまた物語のテーマを際だたせるために必要な仕掛けであることが明かされ、「さすが」と掛け声をかけたくなる。
最近のわたしは、空間を濃密に感じさせる小説(たとえば永井荷風のような)や、でなければ純粋に筋が面白いエンタテインメント小説を好んで読んでいる。都筑道夫さんの作品は、見事にいまの二つの条件を兼ね備えていることにいま気づいた。
そうした自分の嗜好を分析すると、丸谷さんのこの手の作品はどう位置づけられるのか。空間性はまったくと言っていいほど稀薄である。筋の面白さはあるけれど、エンタテインメントと呼ぶほどのドライブ感があるわけではない。「さすが丸谷さんの」と呼ぶほかない、典雅な閑談と知的なユーモアであやなされた文章の運びに魅せられる。
“丸谷さんの小説を読む”というただそれだけの気構えが、文章の片言隻句や散りばめられたメタファーを取り逃すまいという緊張感に変わる。ほかの小説を読むときもこんな気持ちになればいいのだろうけれど、その都度緊張しきっていては、小説を読むのが厭になってしまう。夏休みという呆けた気持ちになりがちなときこそ、読むときに適度な緊張感をもたらしてくれるこの手の小説を選ぶべきなのかもしれない。