第73 非戦災都市山形

わたしは山形市の北辺部で生まれ育った。大学に入学して仙台でひとり暮らしをはじめてから、実家は市内中心部(城下町の名残を町名に残すいわゆる「旧市内」)に引っ越した。帰省中の生活圏は市内中心部に移ったことになる。
とはいえ車中心の生活だから、買い物は少し離れた大型スーパーに行くことになるし、そちらのほうが何かと便利である。これは自分たちだけでなく、山形市に住む人びと全般に当てはまるだろう。山形に限らず、地方都市はたいがい車なしでは生活できない郊外依存型となり、逆に中心部は空洞化が進行することになる。
東京に住むようになり車を手放し、移動手段が電車・自転車・徒歩となることで、町との距離感がずいぶん縮まった。歩いて町並みの雰囲気を楽しむこともおぼえた。そうした習慣が身につくと、帰省したとき、それまで車で乗りつけていた場所でも、「なあんだ、歩いてもいける距離じゃないか」ということに気づき、歩いていくようになった。
いくら田舎出身でも市内中心部の土地勘がないわけではないので、目的の場所に行くまで、雰囲気のよさそうな小道・路地を選んで歩くことになる。そうすると、市内中心部といっても、大通りから一歩奥に入ればまだまだ田舎の農村的風景が残っていることに気づくし、敷地内に土蔵を構えた旧家がたくさんあることに驚いたのだった。
これらの土蔵はもちろん戦後建てられたものではないだろう。戦災もまぬがれたのかしらん。だとしてもそういう屋敷が多すぎるから、そもそも山形は戦災をこうむったのだったか、歩きながらそんな疑問が頭をかすめた。
今日も家から30分ほど歩いて山形城旧二の丸跡(現霞城公園)大手門のそばにある古本屋香澄堂書店を訪れながら、山形の古い町並みの風情を堪能したばかりだったので、興の醒めぬうち、調べておこうと思いたった。帰り道実家近くにある山形市立図書館に立ち寄り、『山形市史 近現代編』をひもといた。
昭和20年6月29日に酒田、7月9日に仙台が空襲をうけたことで、山形市も空襲を警戒するようになる。その後8月9日には神町飛行場(「神町」は阿部和重さんの小説の舞台として有名)や山形市北部の日飛飛行場が爆撃を受けた。この日飛飛行場はわたしがもともと住んでいた漆山にあり、地元では「漆山飛行場」と呼ばれていたはずだ。

すでに全国で県庁所在地の大部分は空襲を受けており、八月十四日現在で戦災をうけていないのは、東北地方では秋田と山形のみであった。その秋田も十五日未明には空襲を受けるにいたり、山形市民も山形の空襲は必至と心中ひそかに覚悟せざるをえなくなっていたが、同日終戦となり、幸い山形は戦災を免れ、数少ない非戦災都市の中に数えられることになった。(452頁)
すでに終戦が決まっていただろうに、終戦当日未明に空襲を受けた秋田は気の毒としかいいようがないが、それにくらべ山形が空襲を受けなかったとは。
中世以来の領主だった最上氏が江戸時代初めに改易されてからは、小さな譜代大名が入れ替わり立ち替わり入った山形だが、秋田の佐竹氏、仙台の伊達氏といった大大名の城下町にひけをとらないほどの城下町が形づくられていた。
山形はいまでも三日町、七日町、十日町、銅町、鉄砲町、小姓町、旅篭町のような昔ながらの町名が息づき、城下町の特徴である鉤型の道路も残るなど、古い城下町としての名残をとどめた貴重な都市ではあるまいか。戦災を受けなかったこともその要因のひとつに数えられるに違いない。
県庁所在地としての体面をたもつべく、これも古い町の特徴のひとつである一方通行の道路を拡張する工事が中心部のあちこちで行なわれていたが、それが必要なほど車の渋滞がひどいとは思えない。中心部の道路工事に注ぎ込む予算をむしろ市内の景観保持(古い土蔵造り建物を持つ家への維持費助成など)にふり向けるほうがいいような気がする。
かつて学んだに違いないがまったく記憶になく、いまごろ郷里の町が非戦災都市であることを知ったのは遅きに失した感なしとしないが、せめてこの町にいる間はあちこちを歩き回り、古い町の情緒を味わおうと決めた。