ミステリとは違う社会派

七人の敵が居た

最近ふじたさん(id:foujita)をはじめとする方々の刺激で、石川達三の本が気になるようになってきた。古本屋に行き、文庫のコーナー、いや、店頭本のコーナーに目をやると、新潮文庫の水色の背表紙が視界に飛び込んでくる。石川達三と言えば水色。これまではそんな印象に過ぎなかった。
そもそも石川への関心は、さかのぼれば佐藤卓巳言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』*1中公新書、→2004/9/17条)に突きあたるだろう。佐藤さんは石川の小説『風にそよぐ葦』を取り上げ、そこに描かれる言論統制の中心人物鈴木庫三陸軍少佐の虚像を一枚一枚剥がし、実像を明らかにしてゆく。
言論統制』を読んだときは、鈴木庫三像を世間に流布させるもとになっていた石川達三(および彼の小説『風にそよぐ葦』)への印象は、鈴木庫三という人物のアクの強さの陰に隠れてしまっていた。
けれどもいま思えば、石川達三鈴木庫三という人物を“言論統制の悪玉”として描き、糾弾したことは、自らが被害にあったという体験はもちろん、彼の作家としてのスタンスがそうさせたわけである。
そう思い直すきっかけになったのは、先日オヨヨ書林の店頭本で手に入れた『七人の敵が居た』*2新潮文庫)を読んだことだった。正義漢、社会派作家としての良心が、社会の悪や矛盾に我慢ができなかったのだろう。そんな矛盾をとことんまで追及し、真実を明らかにせねば気がすまない、石川達三という作家の姿勢が、本書を読むことでよくわかった。
本書は、LM女子大学法学部教授で同大の常任理事でもある有力者が、教え子の女性から強制猥褻と強姦の罪で告訴され、有罪とされたという実際にあった事件を追いかけたものだ。もとより教授と教え子との間に性的関係はあったが、合意のうえのものであったらしい。しかし、教授が教え子と密会を約束していた日(2月15日)、突然その関係者を名乗る建設会社社長が研究室に乗り込んできて、彼に慰謝料を要求する。
その数日前(2月11日・13日)にも性的関係を結び、前日(14日)には「愛をこめて」というメッセージ入りのバレンタイン・チョコレートまでもらったにもかかわらず、その夜教え子は突如として泣きながら両親に乱暴を受けたことを告白し、問題が明るみに出される。
さらに証拠品として、乱暴を受けたさい教授からズタズタに引き裂かれた下着が、洗濯された状態で提出されている。と、こんな粗っぽい要約をしても、疑問点だらけであるにもかかわらず、検事も判事も、原告側の論理的矛盾や証拠品の信憑性について何らの疑義もさしはさまず、教授を有罪にすることを前提にしているかのように公判が進み、結局有罪判決を受ける。控訴審・上告審でも棄却され、最終的に有罪が確定した。
こんなおかしなことがあっていいのか。石川達三は正義感をもって公判記録を読み込み、事件の推移と公判の流れを追いかけながら、淡々と矛盾点を指摘する。それでわかってくるのは、警察・検察権力のいい加減さなのだが、だからといって石川はそれに激烈な形で筆誅を加えているわけではない。これが彼の筆法なのか。
事件を客観的に見ようとするから、教授側の発言も全面的に鵜呑みにはしない。それはそれで当然だと思う。しかしながらそのあまり、教授を裏切ったかたちになる原告の教え子にすら同情を寄せてしまうのはいかがなものか。裏に大学内部での派閥争いや、大学に発言権を有する国会議員が絡んでいるらしいことも指摘しながら、それらが公判で取り上げられなかったことを憤るだけで、ではこの事件の「本当の真相」はどこにあったのか、明らかにされているわけでもない。
ミステリであれば、「実は…」というかたちで事件の真相が明らかにされ、読者もそれで落ち着くのだが、そんな期待で読んでいたせいか、「これだけの矛盾があったのに、被告は有罪にされてしまいました」という叙述で終わってしまったことに、どうしても欲求不満を残さずにはいられなかった。
社会派作家ではあっても、社会派「推理」作家ではない。その違いだろうか。それはともかく、石川達三の小説を読むのはこの作品が初めてなので、もう少し彼の作品を追いかけ、読んでみようと思う。