あだ名と似顔絵

カラー版 似顔絵

和田誠さんの『似顔絵物語*1白水社、→8/10条)の記憶が薄れないうちに、山藤章二さんの似顔絵論『カラー版 似顔絵』*2岩波新書)を入手することができた。
山藤さんの本は語り下ろしで、似顔絵を職業とするにいたった経緯や、「似顔絵とは何か」という本質的な議論を、自ら描いた似顔絵だけでなく、『週刊朝日』誌上で主宰する「似顔絵塾」に寄せられた似顔絵を素材に展開する。
夕刊フジの連載エッセイにつながる部分では、やはり野坂昭如さんの『エロトピア』が絵と文章を融合させた〈山藤流〉を編み出すきっかけとなる仕事だったと回想されている(35頁以下)。
挿絵画家として自己主張するため、作家の似顔絵と、絵に文字を入れる試みを始める。さらに絵の中味を文章の絵解きに終わらせるのでなく、同じテーマで別の世界を描く、つまり文章の邪魔をするというタブーを犯す。ところが文章の野坂さんも面白がり、次の回に逆襲するといった掛け合いが読者にも歓迎された。
そしてこの方法が夕刊フジの挿絵にも求められ、好評を博し、方法としての「イラスト・エッセイ」が確立する。方法の確立ということで画期的だったいっぽうで、エッセイが本にまとめられるとき挿絵もすべて収録されるようになったことで、画家にも印税が入ることとなったという。
夕刊フジで山藤さんが挿絵を担当したうち、単行本化のさい唯一挿絵が入らなかった渡辺淳一さんについても言及されている。「まァ、なんとなく理由はわかるけど(笑)」と、そのあとの言葉が濁されているのは残念な気がするが。
似顔絵は、対象の表面だけにとらわれず、焦点深度を深くして、モデルの内側にまで光りを当て、本質をズバリとつかまえるものだという指摘は、和田誠さんの似顔絵論にも通じる。ここで引き合いに出されているのは、あだ名である。あだ名もまた、その人の内面的なものまで含みこんで、すべてを一口でひっくくれる感性が要請されるという意味で、似顔絵の上手下手に直接結びつくという(110頁)。
似顔絵とあだ名の相似という問題については、奇しくも和田誠さんも指摘している。和田さんは似顔のコツを問われたとき、こう答えるという。

人に綽名をつけてみることです。うまくつけた綽名なら、それが誰を指すのかすぐわかる。そしてみんなに笑ってもらえる。これが似顔を描く要諦です。(『似顔絵物語』257頁)
和田さんがあだ名と似顔絵の共通性を指摘したのは、丸谷才一さんの似顔絵論「共同体と似顔」(文春文庫『夜中の乾杯』所収)に依拠している。和田さんが中学時代似顔に開眼した基底には、モデル(先生)と似顔画家(和田少年)と鑑賞者(主として同級生)によって形成された緊密な共同体があったからだという。
似顔絵(の成功)には、描く人と描かれる人の関係だけでなく、鑑賞者の存在も大事であるということは山藤さんも論じている。山藤さんは東洲斎写楽を例に出し、写楽が消えた原因が「真実の姿を描こうとしたあまり、「あらぬ様に」描いてしまった」ことにあるという太田蜀山人写楽評に注目する。
写楽は歌舞伎狂言の役柄を描く役者絵本来の描き方を逸脱し、役者の人間性を描いてしまった。これが「あらぬ様」の内実ではないかとし、それゆえ鑑賞者の支持を得られなかったのではと推測する。写楽の時代、「ドキュメンタルな諷刺のきいた絵画表現を受け入れる感覚的土壌は、まだなかった」(5頁)のである。
写楽に似顔絵精神の源流を見いだした山藤さんは、自らその系譜を引く「戯れ絵師」を名乗る。浮世絵見立の絵も描いているが、その写楽を論じた序章の章扉に掲げられているのが、浮世絵風にデフォルメされて描かれた片岡孝夫(現仁左衛門)像である。これが実に似ている。江戸の浮世絵師が書いてもこんなふうに描かれたのではないかと想像できるほど。
江戸の役者絵というと写楽の大首絵を連想し、極端にデフォルメされているゆえ実像の似顔からはかけ離れていると思いがちだったが、この山藤浮世絵を見ていると、写楽の大首絵はけっこうモデルの役者に似ていたのではないか、似顔絵としても一流のものではなかったのではないかということに気づいた。
もちろん当代片岡仁左衛門丈が、いかにも江戸の歌舞伎役者のような柄の大きさ、キャラクターの強さを持ち合わしているということも、忘れてはならない。