想像力を働かせる小説とは

きなきな族からの脱出

書棚の“和田誠文庫コーナー”は、ある棚の最下段に位置している。その棚の前には積ん読本の山がいくつもそびえ立っているから、それらにすっかり隠され、コーナーがあることすら忘れかけていた。このところ和田誠さんの文庫本を何冊か買っているけれど、コーナーを表に出すためには相当の作業が必要だから、積ん読の山にまぎれたままになっていた。
先日たまたま“和田誠文庫コーナー”前の山を動かす必要が生じ、久しぶりに顔を出したコーナーを眺めていたら、しばらく前に買ってそのままコーナーに横積みにしておいた短篇集『きなきな族からの脱出』*1(角川文庫)が目に入った。
そう、本書はエッセイ集ではない。小説集なのだ。和田さんの創作がどれくらいあるのか知らないが、見つけたとき(たしか郷里のブックオフだった)珍しいのではないかと思い、買っておいたのだった。
買ったときは、珍しいとは思いつつ、その珍しさだけでは読む契機とならなかった。先日目に入ったとき、手に取りめくっていたら、本書がかなり変わった趣向の短篇集だということがわかり、読む気になったのである。買ったときさほどこの点を気にしなかったのは迂闊だった。
その趣向というのは、収められている22篇すべてが「短篇小説」ではないことだ。と書くと、先に短篇集と書いたことと矛盾がありそうだが、矛盾ではない。実はすべてが長篇ないし中篇の「終章」ばかりという設定なのである。つまり、ある程度の長さの小説の結末部分ばかりを集めたという趣向になっている。各編の扉と柱には小説のタイトルが掲げられているが、本文冒頭はことごとく「終章」という章タイトルから始まる。
この22篇は、SFあり、冒険小説あり、時代小説あり、恋愛小説、青春小説、幻想小説、ハードボイルド、ロマン、怪談から、実験的小説や芸能プロ社長の聞書にいたるまで、あらゆるジャンルの物語となっている。これだけ見ても、和田さんの才能のほとばしりがうかがえるというもの。
和田さんの才能は、いろいろな物語を書くことだけでなく、その結末にあたる部分だけを書いて並べるという趣向としても発揮された。小説家のなかには、この仕事ぶりを見て歯ぎしりしながら悔しがる人もいるのではあるまいか。筒井康隆さんあたりが試みてもおかしくない。筒井康隆といえば、『虚航船団』ばりに感情移入しにくい、モノが擬人的に登場する一篇(「サファイア・ボールルームまたは回転物体に捧ぐ」)もある。
終章だけの短篇集という枠を外しても、十分ひとつの短篇として成り立ちうる好篇も多かった。表題作の「きなきな族からの脱出」がまさしくそれに該当する。顔の上に、一度やるともう元に戻すことができない表皮をかぶせ(コーティングのようなもの)、その表皮に独自の色を塗ったり、ガラス玉を埋め込んで飾ったりする。それが「きなきな族」で、いわば新種の人類だ。
表皮をかぶせない元の人間は、最初は「のーまる」と呼ばれていたが、すぐ形勢逆転して「おーるど」と呼ばれ、しまいには全員がきなきな族になることが義務づけられるという「きなきな法案」が国会を通過し、「国民皆きなきな制」がしかれるに至る。この奇抜な着想。
それにしても結末部分から読むというのは、不思議な体験だ。もちろん全体があっての結末ではなく、他の部分は存在しないうえでの結末なのだから、それ自体を短篇とわきまえて読めばいいことはわかっているのだが、「終章」とあると、気持ちとしてそういうわけにはいかなくなる。
一定の長さのある小説の結末部分という心構えで読み始めると、一行目から、一字一句も読み漏らすまいと緊張感を持ち、登場人物の人間関係や、物語の推移を早く把握しようと焦ってしまう。ようやく話が見えてきたと思ったら、もう物語はおしまいにさしかかっているのである。
わずかな記述からそれまでの物語の流れを想像し、人間関係を探るというのは、想像力を駆使させ、頭を活性化させる読書ではあった。