ちふこつちや

鶴

内田百間『鶴』旺文社文庫)を読んだ。
本書は百鬼園先生4冊目の文集にあたる。旺文社文庫に入っている百鬼園先生の文集を最初から読んでいこうとこころざし、4月に『無弦琴』を読み(→4/25条)、これが2冊目ということになる(『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』はとばしている)。
この旺文社文庫版『鶴』は、同文庫の百鬼園シリーズが四十数冊あるなかで、もっとも早く入手したうちに入るのではあるまいか。解説が種村季弘さんだからだ。とりあえず種村さん解説の本を集めるということをしていて、本書に目が止まったような気がする。
買ったと言っても、十数年前、たしか学生時代バイトをしていた仙台の古本屋で、自分の仕事のひとつであった文庫補充の途中で本書を見つけ、棚に入れずに自ら購入したように記憶している。こんなふうにして購った文庫本は数知れず。その前後、旺文社百鬼園シリーズを数冊(絶版コーナーでなく、普通の棚に)補充した記憶があるけれど、それらは買っていない。上述のように、『鶴』は何より種村さんが解説だから買ったのである。
さて、本書には、ドイツ語の個人教授をしていた女学生長野初を悼んだ「長春香」が収められている。関東大震災で多数の犠牲者を出した被服廠の近くに住み、震災で命を失ったと推測される彼女を、直後に捜し回る百鬼園先生の姿、彼女の追悼会の闇鍋で、ボルテージがあがって、しまいには位牌を鍋に入れてしまう挿話が印象的な佳品だ。
この「長春香」とともに、何度も愛読しているのが師漱石追想した「漱石先生臨終記」である。ここに書いてある内田栄造青年の師漱石に対する心情が、わたしが恩師に対するときの気持ちとあまりに似ているので、強い共感を抱かずにはおれないのである。

何年たつても、私は漱石先生に狎れ親しむ事が出来なかつた。昔、学校で漱石先生に教はつた人達は勿論、私などより後に先生の門に出入りした人人の中にも、気軽に先生と口を利き、又木曜日の晩にみんなの集まる時は、その座の談話に興じて、冗談を云ひ合ふ人があつても、私は平生の饒舌に似ず、先生の前に出ると、いつまでも校長さんの前に坐らされた様な、きぶつせいな気持が取れなかつた。(108頁)
「きぶつせい」と当時の心境を書く百鬼園先生だが、文庫版巻末解題で平山三郎さんは、漱石の前で特技である「両耳動かし」(歯を食いしばって両耳をひくひくさせる)を披露したことがあるという挿話を指摘し、「きぶつせい」な心境に「信じがたい」と疑問を挟んでいる。わたしも百鬼園先生に「裏切り者」と叫びたい気持ちだ。
本書を読んでもっとも印象に残ったのは、岡山中学校時代を追想した「烏城追思」の一篇だった。少なくとも一度読んでいるはずなのだけれど、そのときの記憶はほとんどない。
ここで百鬼園先生は、当時「一ばん物騒に思はれた先生」として青木先生、木畑先生二人をあげている。怖いながら木畑先生は「一脈の寛ぎがあり、親しみがあつたけれど」、青木先生のほうは「恐ろしさは圧倒的で」「夢の中で、恐ろしい物にうなされてゐる様であつた」とする。
物音すら立てられず、顔が痒くても手を動かせないような緊張感の支配する教室の描写と、そこに流れるかすかなユーモアが絶妙な次の一文。
先生は物静かな声で出席簿をつけ、それから教壇の上を、ゆつくり歩いたり、又立ち停まつたりした。英語の読本を片手に持つて、教壇の向うの端から、半ば私共の方を見る様な恰好で、「ゼ、シツクドル。病気の人形ちふこつちや」と云つた。
 それから教壇の上を、そろそろ歩き出して、こちらの端に近づいて来た。私共は息を殺して身動きもしなかつた。
 先生は教壇のこちら側の端に起つて、まともに生徒の方を向いた。
 はつと思つた途端に、先生は、さつきより、もつとやさしい調子でまた云つた。「病気の人形ちふこつちや」
 どんなにやさしい声をしても、私共は信用しなかつた。声はやさしくても、怖い事に変りはないのである。(163頁)
この「ちふこつちや」という話し言葉の表現が、怖い先生の口から発せられたからこそ、コケットリーなおかしさをかもしだす。
ちなみに「烏城追思」は、福武文庫版では『幼年時代*1に、ちくま文庫版では『内田百間集成13 たらちおの記』*2に収められている。新字新かなづかいを採用している両書でこの部分は、「ちゅうこっちゃ」となっている。
「ちゅうこっちゃ」では、厳しさのなかにユーモアが際だってこない。「ちふこつちや」だからこそ、怖い先生の口から発せられたやさしそうな一語と、それを信用しない学生たちのしゃちこばった姿を思い浮かべることができるような気がするのだった。
京友禅(長谷川松寿堂)の図柄を流用した『鶴』のカバー装幀は、田村義也さんによる旺文社文庫百鬼園シリーズ中でも屈指の美しさである。