外面と内面の交差点

似顔絵物語

最近、映画「金田一耕助の冒険」を観たり、井上ひさし『円生と志ん生』(集英社)を読んだりしたことで、和田誠さんの名前が脳裏に刻まれたことから、かねがね読もうと思っていた和田さんの著書『似顔絵物語*1白水社)をこの機会に読もうと思い立った。
この本は、同じ白水社から出ている『装丁物語』*2(旧読前読後2001/6/3条→“Ç‘O“ÇŒã2001”N6ŒŽ)の姉妹編で、本のつくりも似た雰囲気になっている。「あとがき」によれば、『装丁物語』を担当した編集者の和気元さんからまた本を作りましょうと言われ、最初に提案されたのは「ポスター物語」だったとのことで、和田さん自身がこれを「似顔絵物語」に変更したという。
本書は“和田誠流似顔絵の描き方”“似顔絵講座”といったたぐいの本ではない。『装丁物語』のコンセプトに同じく、「ぼくが似顔絵に関して体験したことや、思い浮かべるさまざまな事柄について」(「あとがき」)書かれた本である。だから、少年時代に似顔絵に興味をもったきっかけから、本格的に似顔絵を描くようになった高校生時代を経、職業として描くようになった現在に至る似顔絵との関わりについて、とても興味深いエピソードがたくさん語られている。
和田誠さんのイラストとセットで思い浮かべる作者は、前記井上ひさしさんや、色川武大阿佐田哲也)さん、都筑道夫さん、吉行淳之介さん、小沢昭一さん、矢野誠一さん、三谷幸喜さん等々たくさんいるけれど、何より丸谷才一さんを忘れるわけにいはいかないだろう。もはや丸谷さんのエッセイ(本)に和田さん以外の人が結びつかないほど。
作者と画家とのコンビのあり方について、「名人たち」という一章で触れられている。ここで和田さんがあげているのは、村上春樹安西水丸椎名誠沢野ひとしという二組。村上・安西コンビについて、「水丸描く春樹像という一種の記号になっていて、作者、画家、読者、という緊密な三角形の中にあって、ゆるぎないものです」(230頁)と述べられている。
その伝でいけば、丸谷・和田コンビも、作者・画家・読者の三角形の緊密さは劣らないだろうし、たとえば山口瞳柳原良平コンビもそういうことになるだろう。
むろん似顔絵ということであれば、山藤章二さんも丸谷さんを描いていて、それが和田さん描くところの丸谷像と並んで本書に収められている(194頁)。でも、丸谷エッセイに山藤挿絵というコンビとなると、どうにも想像がつかない。無理に想像すれば、エッジが立ちすぎるというか、ギスギスした感覚が頭をよぎる。作者・画家・読者の三角形が緊密なることの証拠だろう。
その山藤さんについては、「分析と批評」という一章で詳しく触れられていてとても興味深い。「山藤さんと和田さんの二人に似顔を描かれた時、ああ俺も世間に知られるようになったと思って嬉しかった」というタモリのコメントが紹介されているように、山藤・和田がペアで語られることについて、当事者自らが画風の分析を行なっているのである。
ここで和田さんは、丸谷さんの卓抜な山藤・和田論「タイム・マシーン的方法」(文春文庫『好きな背広』所収)にて、山藤=対象を老化させる、和田=対象を若返らせるという指摘がなされたことを敷衍し、次のように述べている。

山藤さんの絵よりぼくの絵の方が線の数が少いです。したがって髪の毛も線で描いた場合、数が少なくなる。そこだけは老化になるんですけど、その代り、シワも少くなります。これは若返りですね。毛髪を別とすれば、顔の中の要素が少い方が若く見えます。(195頁)
毛髪云々の話は、色川武大さんが、山藤さんのほうが髪の毛を多く描いてくれるから嬉しいと語った話が前提にある。わたしの場合どちらの絵も大好きで甲乙つけがたいのだが、描かれる人間は別として、純粋な読者の側にいる人で、どちらかが大好きでどちらかは大嫌いといった極端な好悪を示す人がいるのだろうか。
粟津潔さんが和田さんの似顔絵について語った言葉が素晴らしいので、これを引用して終わりにしたい。
顔の表層は外面だけど、表情には内面が現われる。似顔というのは外面と内面の交差点を描くことになるんだな。(261頁)
蛇足。本書のカバー表・裏、表表紙、扉、最終頁には、画家が聖徳太子肖像画を描くという同じ構図の絵5葉が描かれている。画家は、順にピカソ、ダリ、ウォーホル、ゴッホロートレック。キャンバスに描かれている聖徳太子肖像画も、いかにもそれぞれの画風に似せてある。ロートレックはキャンバスから画風がつかめないが、画家が腰掛けの上に乗って描いていることから、ロートレックであることがわかる。こうした趣向こそ和田似顔絵の独壇場なのだ。