ストーリーも魅力の『食道楽』

食道楽(上)

村井弦斎の『食道楽』が面白そうな本であることを知ったのは、せいぜい一年ちょっと前のことにすぎない。阿川弘之さんの『食味風々録』*1新潮文庫、→2004/4/8条)を読んだことがきっかけだった。
この食味随筆集に収められた「牛の尾のシチュー」という一篇で阿川さんは、結婚したとき奥さんが持参した嫁入道具のなかに『食道楽』春夏秋冬全四冊を見つけ、それで実物に初めて接したと書いている。
それから阿川さんは、この本のあちこちを拾い読みするたび、奥さんに「此のへんのところ、お前よく勉強しといてくれよ」と念を押していたという。嫁入道具のひとつとして選ばれたと同じ理由で、阿川さんは同書を小説としてでなく、「実用書」とみなしていたゆえの発言だった。

何しろ、当時としては実に贅沢な、手の込んだ、和洋支の料理が列記してあって、お登和嬢がその作り方を、次々詳しく説明するのである。「当時」とは、「食道楽」が出版された明治三十六、七年当時の意味でもあり、私たちが世帯を持った昭和二十年代の意味でもあるが、いずれにせよ今と時世が違い、読めば一々珍しく、こんな旨そうな物一度食ってみたいと、驚きもし憧れもした。(28頁)
これを読んだときのわたしの心境は、「そんな面白そうな本一度読んでみたいと、驚きもし憧れもした」といったふうだった。
奇しくもその数ヶ月後、『食道楽』の著者村井弦斎の評伝が出たのにまた驚かされた。黒岩比佐子さんの『『食道楽』の人 村井弦斎*2岩波書店)だ。多少値がはる本だったものの、上のような経緯もあったから思い切って購入し、「読まずにホメる」で取り上げた(→“Ç‚Ü‚¸‚Ƀzƒ‚é)。
その年の暮れ横手のブックオフで、『食道楽』の抄録版である『食道楽の献立』*3角川春樹事務所・ランティエ叢書、→2004/12/12条)を見つけた。念願のテキストを入手できたことは嬉しかったけれど、やはり抄録版(秋の巻)であるため、読む気持ちが飽和点まで達しなかった。
黒岩さんの本はその後サントリー学芸賞を受賞したし、版元も版元だから、依拠すべきテキストがいずれ岩波文庫に入ってくれないものか、ひそかな期待を抱いていたこともある。だから本当に岩波文庫に入るという情報を得たとき、小躍りしたいほど喜んだ。
今月はまず春・夏の二巻を収めた『食道楽(上)』*4岩波文庫)が出た。ついに待望のテキストを手にし、幾度もめくりかえしながら、「ちょっとだけ」と冒頭を読み出したら、とうとう飽和点を突破し止まらなくなってしまった。『報知新聞』連載の新聞連載小説ということもあり、一回分が文庫本数ページと短いのはわたし向きだ。
最初は、文語体と口語体が入りまじった奇妙な文体が読み進むことを阻むかと恐れたが、読んでみるとまったく気にならない。いきなり「胃吉」と「腸蔵」という、人間の胃と腸を擬人化した「二人」の会話から始まる。「二人」は正月における人間の暴飲暴食に身がもたないと嘆き合うという突飛な趣向。おせちは消化に悪い食べ物ばかりなのだな。
本書を、阿川さんのエッセイであらかじめ知っていたような、料理法の実用書として読めることはたしかである。いまで言うグルメの本でもあり、料理方法を語り、素材を語り、料理器具を語る。それだけでない。登場人物の口からは、健康食品学、食品衛生学、食餌療法学、食事マナー学など、食べ物の周辺にまつわる饒舌な議論が次々語られる。
話柄は食べ物にとどまらない。家庭における食事の重要性、料理を妻だけに任せるのでなく、夫も手伝うことで夫婦の和が保たれるといったジェンダー論的家庭平和論や、住まいのなかにおける台所の位置づけといった建築空間論もあり、果ては鋭い社会批評、文明批評まで飛び出す。
とはいえわたしが本書に惹かれたのは、料理実用書的側面や話柄の幅広さよりもむしろ、小説としてのストーリー展開そのものにあった。
物語は、文学士(というからには帝国大学出身なのだろう)の大原満と彼の親友で文学雑誌の編集をしている中川と小山、中川の妹お登和と小山の細君という五人の間で展開する。とても誠実で人が良い大原は大食漢なのが玉に瑕。美しく物腰が柔らかで料理の上手いお登和さんに憧れ、彼女を嫁に迎えたいと思っている。まず小山夫妻をくどき、仲介を頼む。快諾した小山夫妻はお登和の兄中川を説得し、最初は乗り気でなかったお登和さんも次第に大原に心を寄せるようになる。しかし二人の間に思わぬ障害が出現したのだった。
実は大原には田舎(岩手の在らしい)に従妹にあたる許嫁がいた。彼は従妹の父に経済的援助を受け、大学に通っており、しかも従妹の家は本家でもあるから頭が上がらない。お登和さんとの婚姻を認めてもらおうという手紙を実家に出したところ、理解があるのは父親(ただし入り婿だから立場が弱い)だけで、本家の叔父叔母は頑として受け付けず、田舎娘でお登和さんとくらべれば器量が劣る許嫁のお代も大原のもとに嫁ぐ気満々。五人一緒に上京し、大原がお登和さんとの新婚生活のために借りた新居に押しかけ居座ろうとする。
春の巻は大原とお登和さんの結婚のゆくすえに気を揉み、夏の巻に入ると、今度は独身の兄中川のほうに結婚話が持ち上がる。中川らが自分たちの持論を広く社会に問うべく発刊を計画している雑誌のパトロンとして白羽の矢を立てた広海子爵の令嬢玉江嬢がその相手。彼女はお登和さんに家庭料理の手ほどきを受けながら、次第に中川兄妹の考え方に共感を持ち、中川を慕うようになる。
さて大原とお登和さん、お代の三角関係は、中川と玉江嬢の恋路のゆくえはいかがならん。いまはただ下巻を待ち望むのみ。