時間と空間

もののたはむれ

松浦寿輝さんの処女短篇集『もののたはむれ』*1(文春文庫)を読み終えた。松浦さんの作品を読むのは本書が初めてである。
松浦寿輝と言えば蓮實重彦直系の弟子というイメージがある。事実として教え子なのかどうかわからないけれど、専攻分野も職場も同じだから、たぶんそうなのだろう。文章も蓮實さんの、あの持って回ったような、晦渋と言うべきなのか流麗と言うべきなのか表現に迷う文体に似ているという印象があって、著作に近づこうとしなかった。
もっともわたしは蓮實さんの文章は好きなのである。『反=日本語論』(ちくま文庫)などをかつて愛読した。だから、「蓮實重彦は二人いらない」といった感じで、松浦さんの作品を敬して遠ざけてきたと言うべきかもしれない。
しかしながら今回『もののたはむれ』を読んで、このイメージは払拭されたと言っていい。なにをいまさらと言われそうだが、松浦さんはあくまで松浦さんであって、蓮實重彦とは違うということを強烈に刻印されたからだ。それに小説自体面白く、現在のわたしの嗜好に合う。これから松浦作品が出るたび、買い求めることになるだろう。
本書は、一篇が十数頁という短さの短篇が集まって構成されている。ごく日常的な風景が、スイッチひとつでがらり幻想的世界に変貌する、言葉を換えれば、現実のなかに生活している人物が、ふとしたきっかけで幻想的世界にまぎれこんでしまうような幻想小説もあれば、そうした大げさな仕掛けがほどこされず淡々と日常的風景のなかに生活する人間を描写することで、深遠なる世界をかいま見せるような枯淡の作品もある。
わたしとしては、作中の人物がある地点をひとまたぎしたとたん目の前に幻想的世界が広がるような、作り物めいた幻想小説よりは、仰々しい仕掛けが表面に見えない作品を好む。たとえば「黄のはなの」「並木」「鬱々と」「雨蕭蕭」といったあたりの短篇だ。
たとえば「並木」では、日暮里から鶯谷方向に歩いている途中で見つけた喫茶店に入った主人公が、二階にある畳敷きの和室に案内され、そこでぼんやり時を過ごす。その空間と、そこで過ごす時間が気に入った主人公はときおりこの喫茶店(店名が「並木」)に入り、いつも二階に案内される。そうしているうち、店はいつの間にか閉店してしまったという、ただそれだけの話である。店がなくなったあと、主人公は、そこで過ごした時間がかけがえのないものだったことを知る。

「並木」の二階で味わえたのはふと人の気配の途絶えた他人の家にするりと入りこみ、束の間の居候のようにして仮の時間を過ごすといった奇妙な快楽だった。どことも知れぬ仮の空間に滞留しながら次から次へと甦ってくるとりとめのない記憶の湧出にだらしなく身を委ねて時間を潰すこと。そんなことが可能になったのも「並木」の二階が自分のものとも他人のものともつかぬああいった曖昧な場所だったからこそのことだろう。(61頁)
文庫版解説は三浦雅士さんである。ここでの本書および松浦作品の激賞ぶりはただならぬものがある。現代日本においてもっとも重要な作家のひとり」「小説では不可能なことを小説でおこなっている」「二十一世紀初頭の日本文学の輝きは、松浦寿輝によってもたらされるだろう」などなど、なぜ三浦さんはこれほどまでに松浦作品にのめりこんでいるのか訝しむほど。
とはいえこの三浦さんの解説は、松浦さんの作品世界の特徴を的確に指摘していることは間違いない。解説を読んで「なるほど」と思った。時間芸術であるはずの小説を空間芸術にしようとしている存在が松浦寿輝なのだ。
時間と空間の問題。そう、わたしもここに収められた一連の短篇を読み、作者が時間と空間というものを強烈に意識していることを感じないわけでもなかった。実際上にあげた「並木」は、ひとつの空間にいる人間に意識される時間の問題を取りあげたものだ。
「鬱々と」は、神田の路地裏にある朝鮮焼肉屋の店頭でひたすら豚足を囓りつづける男に流れる時間の話、「雨蕭蕭」は、南千住の天麩羅屋で天麩羅定食を食べた老人が、店を出たあと見知らぬ路地に迷い込み、忽然と目の前にあらわれた映画館で古びた映画を観、映画館を出たら重苦しい気分が一掃されていたという時間の流れの話と要約できる。
本書を読みながら連想したのは、堀江敏幸さんと吉田健一だった。同じ仏文学者の堀江さんはともかく、吉田健一については三浦雅士さんも解説で名前をあげている。時間と物語の緊張関係についての意識を共有しながら、松浦さんの認識は吉田健一のそれを超越しているとすら論じられている。
先にわたしは、松浦さんの著作に近づこうとしなかったと書いた。しかし一冊だけ持ってはいた。芸術選奨文部大臣賞を受賞した『知の庭園―19世紀パリの空間装置』*2筑摩書房)である。発売時(1998年12月)買ったままだった。鹿島茂さんからの興味で本書に食指を動かしたのだろう。4200円もする本を買ってそのままなのは何とも無駄な話だが、書棚の鹿島コーナーの近くに収めた本書をいま取り出してみると、ここですでに空間論が展開されている。ようやく読む機が到来したかもしれない。