エッセイよりイラストエッセイ

重箱の隅

五木寛之さんの『重箱の隅』*1(文春文庫)を読み終えた。
五木さんの本を読むのはこれが初めてである。この本が夕刊フジ連載山藤挿絵本でなければ、五木さんの作品とは一生縁がなかったかもしれない。いや、もう一冊、佐野繁次郎のカバー装幀で一部で話題になったエッセイ集『風に吹かれて』(集英社文庫)も持っているが、これにしても佐野繁次郎展(および岡崎武志さんの同書探索)がなければ気にもしなかった本だ。いずれにせよ、縁とは不思議なものである。
さて本書もまた、全100篇に添えられた山藤章二さんのイラスト全100点が素晴らしい。気がきいている。これだけで十分ひとつの「作品」となっている。
などと書くと五木さんを愚弄することになりかねない。これまで五木作品を読んだことがなく、したがってファンでもないわたしにとって、本書を読むことはすなわち山藤さんのイラストを見る・読むことにほかならないのである。
でもやはり失礼なので、印象に残った文章には触れておきたい。たとえば、最後のほうにある「野球世代の独り言」では、最近(このエッセイが書かれたのは1976年)の若い人たちは野球が下手になったという指摘に始まる。この時点で、もはや野球が唯一の娯楽スポーツではなくなっているのである。

野球は、スポーツというより、或る時代のシンボルのようなものだった。
 最近のプロ野球には、当時のそんな追体験をせおった息づまるような見られ方は少ないのではないかと思う。(340頁)
ちょうどこのエッセイが書かれた頃、わたしは小学生だったが、まだまだ家に帰って友だちと遊ぶことといえば、野球(実際はソフトボールだが)以外になかった。サッカー少年でもあったが、帰宅後の遊びは野球だった。
このエッセイに添えられたイラストは、年記が1948年とある。山藤さんは11歳。昔のグローブやミット、軟球ボールなどが描かれ、当時の阪神のスターティング・メンバーが列挙されている。それにしても、東京っ子の山藤さんは、なぜあんな熱烈な阪神ファンになったのだろう。
エッセイとイラストが呼応していると言えば、「悪魔の耳異聞」も気になる一篇だった。五木さんは、子どもの頃から枕に耳を伏せて眠る癖があったという。それが原因か、耳が前を向いているような恰好をしており、これを英語では「デビルス・イヤー」と言うというのがこのエッセイの骨子である。
山藤さんはこれに「わが家の悪魔の耳」というタイトルのイラストエッセイを添えている。山藤さんは寝る時、両手を頭の上の方に伸ばさないと眠れないのだとある。万歳をする恰好だ。わたしもときどきそういう姿勢にすると、すっと眠りに落ちることがある。
また、山藤さんの息子さんは、自分のムスコを上の方に向けてパンツをはく癖があるという話も書かれている。下に向けるのだと教えても、そうすると気持ちが悪くて勉強が身に入らないと文句を言うのだそうだ。山藤さんが試みに上を向けてみたら、「なんとも妙な感じで10メートルも歩けなかった」とある。わたしは上を向けて収めるのが当たり前だと思っていた、つまり山藤さんの息子さん派なのだが、これは個人の好みなのだろうか、時代性なのだろうか。
「奇妙なコレクション」という一篇では、「珍品の話とくればやはり」と前書きがあって、強引に志ん生の火焔太鼓の絵が描かれ、噺の一節が書きとめられている。どのように自分の得意な落語家シリーズに持っていくのか、それを探る愉しみもある。