「川本四郎」の世界

遠い声

川本三郎さんにまつわるエピソードのなかで、とびきり大好きで忘れがたいのは、『東京おもひで草』*1ちくま文庫)の解説で岡崎武志さんが披露している話である。
岡崎さんは、川本さんの著作のなかでも、最初の小説集『遠い声』*2(発行・スイッチ書籍出版部/発売・扶桑社)が「大好きな一冊」だとし、インタビューの仕事で初めて川本さんと会ったときの話を紹介している。
インタビューが進んでゆくなかで、岡崎さんは、「自分がいかに川本ファンであるかを証明するため」、その時点で唯一の小説集だった『遠い声』が大好きだと告げる。そのときの川本さんのリアクション。

そのとき、その途端、川本さんは破顔して「ありがとう!」と言いながら握手を求めてきた。少々面くらいながら差し出した私の右手を両手で包んで「いやあ、うれしいなあ」と川本さんは繰り返す。
なぜこんなに川本さんが喜んだかというと、「自身で非常に気にいってる著作ながら、あまり知られていない一冊だった」から。この解説に接する(2002年8月)直前、その後刊行されている短篇集『青のクレヨン』*3河出書房新社)を読み、川本的小説世界に魅了された(旧読前読後2002/7/1条)わたしとしては、この解説を読んで本書を無性に欲しくなった。
それから1年ちょっとして、ようやく本書を古本屋で見つけたわたしは驚喜した(→2003/12/7条)。この時点ですでにもう一冊、新しい短篇集『青いお皿の特別料理』*4NHK出版)も加わり、書評の場を借りて人物相関図まで作ってしまったほど*5、ますます川本さんの小説が好きになったわたしとしては待望の一冊だったのに、いまごろになって読み終えた。やっぱり読むのが惜しかったのだ。
さて『遠い声』もまた、川本さんの他の仕事と密接にかかわっている。小説とエッセイ・評論が同じ基礎に立って書かれたような雰囲気で、川本ファンにはたまらない細部探求の愉しみに満ちている。
岡崎さんは前記解説のなかで、川本さんの仕事の多彩さを「川本三郎三人説」というかたちで見事に説いている。「川本一郎」は映画評論、「川本二郎」はアメリカ文学の評論と翻訳、「川本三郎」は日本文学と東京論…というわけだ。わたしはこのうちの「川本三郎」の仕事に惹かれ、「川本三郎」的仕事がメインになったあたりから、川本さんの著作を好んで読むようになってきた。
『遠い声』は他の仕事と密接に関わっていると書いたが、この掌編小説集の場合、「三郎」的仕事との重複はもちろんだけれど、「一郎」「二郎」的仕事との重複も目立つ。近作の『青いお皿の特別料理』には見られない、海外旅行、海外滞在時の体験を土台にした(?)作品もけっこう含まれているのである。
この「二郎」的作品のなかでは、ある日突然コースをはみ出して運転したいという衝動にかられ、終点まできてもそのままバスを走らせつづけたという、勤勉なニューヨークの定期バス運転手の挿話が印象深い「キーウェストのバーで」がいい。
また、「三郎」的作品のなかでは、評論やエッセイでも触れられている話が小説に取り込まれており、小説ではぼかされて書かれている固有名詞をあれこれ想像する宝探し的、マニアックな愉しみ方ができる小説がよかった。
たとえば「橋」。主人公は、別れた妻とよりを戻そうとするが拒絶され、泥酔したあげく長い木の橋から落ちる男の映画を観る。これは森繁久彌主演の「渡り鳥いつ帰る」(わたしの感想は2004/9/5条)のことだろう。自分も知っている映画だとわかったときの嬉しさ。
これとは少し性質が異なるが、「試写室のホタル」は、自宅近くの古本屋で「ある女性作家」の随筆集を見つけ、以前彼女を映画の試写室で見かけた記憶を思い出す話である。その女性作家とは、「明治なかごろに東京の麻布に生まれ、昔の東京の町の様子をよく書いていた。私はそれが好きだった」という人物。
主人公(たぶん川本さんがモデル)は、彼女の随筆に映画の試写会のことを書いた文章があることを思い出し、その試写会とは、自分が彼女を見たように記憶するあのときではなかったかと想像する。
ピンと来たわたしは、書棚から網野菊『一期一会/さくらの花』*6講談社文芸文庫)を取り出し、確かめた。「作家案内」に彼女は麻布区生まれとある。小説のなかで触れられている没年や作品の数、雰囲気などは彼女にぴったりだ。あいにく同書は短篇集なので、当の随筆を特定することはできず、したがって人物もあくまで推測の域にとどまるのではあるが、『遠い声』を読みながらこんな愉しみにふけったのだった。
本書には48篇もの掌編が収められている。作者自身をモデルにした主人公の作品があったとおもいきや、女性が主人公だったり、幻想的な作品が登場し、面食らう。べつに面食らうこともないのだが、拵え物めいた雰囲気と川本さんの世界が両立することがちょっと不思議なのだ。
本書の最後のほうになるにつれ、日常の隙間から侵入してきた非日常的質感が圧倒的な幻想小説が多くなってくる。実はこれらもまた素晴らしい。これは「一郎」でも「二郎」でも、ましてや「三郎」でもない、「四郎」的作風と言えるだろうか。