郵便学から苦手意識を考える

反米の世界史

「外国」「外国人」がどうも苦手だ。これは好悪の判断とはちょっと違う。実際「外国」、たとえばパリや東欧の都市(ブダペストプラハ)への漠然とした憧れはあるし、現実の外国人との付き合いだって皆無ではない。別に苦手だから冷たく接したことはなく、むしろ逆で、自分で言うのも変だが、きわめて友好的なほうだと思う。
こんな自分の「外国」「外国人」への屈折した感情は、「外国」「外国人」という観念に対する苦手意識なのかもしれないと気づいた。
内藤陽介さんの新著『反米の世界史―「郵便学」が切り込む』*1講談社現代新書)を手に取ったとき、そんな考えが頭をよぎったのである。
現実にアメリカが好きで、音楽や映画、ファッション、スポーツ、食文化といったアメリカの文化風俗を好む人は多いと思われる。でも、アメリカの大国主義や、それによる近年の軍事的プレゼンスに対しては、とりあえず声高に反対を叫んでおく。
いや逆か。アメリカの軍事的プレゼンスにあからさまな嫌悪感をむきだしにしながらも、アメリカ文化まで排除しようとは思わない。「反米」の身ぶりをしていれば、格好がつくという考え。つまり「反米」もある種の観念であって、わたしの「外国」に対する苦手意識と同じ構造なのかもしれない、というわけだ。
内藤さんの本を、こんな問題意識を前提に読むことにした。本書を読むことで、上に記した自分の心理構造がいくばくかは理解できるようになるかもしれない。
読後この意図はかなったのか。必ずしもそうは言えなかった。もとより内藤さんのこの本は、「反米感情」の成立史を読み解こうという意図で書かれたのではないからだ*2。そのかわり、自分には知識が不足していた世界史、とくに近現代史のある部分に対する理解が格段に深まったことは確かだ。
本書は、アメリカがこれまで世界の諸地域において大国主義的に介入してきた歴史を、地域別に、切手や消印、カバー(封筒)といった郵便資料をメインに使用しながらあらためて解釈し直すという意欲的な内容の本である。
これまでまったく無知だった、アメリカのハワイ併合の過程や、フィリピン侵略の歴史、キューバとの間の紛争の歴史を初めて知った。また、大雑把に知るだけだった戦後日本占領から朝鮮戦争に至る歴史、ベトナム介入の歴史もだいぶわかってきた。
ことほどさように、切手などの郵便資料は雄弁に歴史を物語る。切手やスタンプには、生々しい国家の意思が刷られ、刻まれるのである。これらを素材として歴史叙述が可能になるばかりか、従来の歴史像に修正を迫ることすらあるのだ。
たとえば1923年に制作されたソ連の切手には、アメリカのフォードサン社製トラクターが描かれている。自国の農業を宣伝するために作られた切手に外国、しかもアメリカ製品が取り入れられている。「成立後まもないソ連とその国民の対米イメージは、それなりに良好なものであったことがうかがえる」(46頁)という。
面白かったのはベトナムの切手に関する指摘。第二次大戦後も植民地としての支配を続行しようとするフランスがインドシナに再上陸し、第一次インドシナ戦争が始まった。これに対しホー・チ・ミンをリーダーとするベトナム民主共和国は、中国・ソ連の支援を受け、フランスを斥けた。
そのさい制作された切手には、中央にホー・チ・ミン、右に毛沢東、左にスターリンが配され、ホー・チ・ミンは右側、すなわち毛沢東(=中国)側を向いている。当時中国はソ連をはるかに凌駕する援助をベトナムに対して行なっていることが、切手にあらわれているのではないかと内藤さんは推測する。
ところがインドシナ戦争の停戦協定(ジュネーブ協定)において、中国の姿勢は自国の安全保障を優先するもので、ベトナムに犠牲を強いた。同協定締結後に制作された三人並びの切手では、ホー・チ・ミンの肖像だけ正面を向いたものに差し替えられている。
「こうした変更が、インドシナ停戦に際しての中国の姿勢に対するベトナムの失望感の表れと見るのは、いささかうがちすぎであろうか」(183頁)と遠慮深く内藤さんは書くが、たとえうがちすぎであったとしても、歴史的経緯を踏まえ切手を細かく観察しなければ、このような見方は決して出てこない。郵便学ならではのユニークな指摘と言えるのではなかろうか。
他国の記念碑的な節目にあたり、その祝意を示すためわざわざ切手をつくるなど、切手というメディアには対外的性格が濃く流れている。立派な外交の一手段たりうるのだ。
いまふと思ったが、現在侃々諤々の議論がなされている郵政民営化政策では、切手発行もまた民営化の方向で進んでいるのだろうか。

*1:ISBN:4061497901

*2:しかし結論部において、「あまりにも突出したアメリカのプレゼンスに対する非アメリカ人の感情的な反発というものは、それが理性で抑制できないものであるだけに、決して消失するということはないだろう。そうだとしたら、そうした国民感情の集積の上に成り立つ〝国家〟は、より屈折した隠喩のかたちで、みずからのアメリカに対する心情を表現せざるをえないことになる」という重要な指摘がなされている。