全能神への夢想

綾とりで天の川

丸谷才一さんの最新刊『綾とりで天の川』*1文藝春秋)を読み終えた。
たんにここ一週間ほどのわたしの気分の問題なのか、いままでの丸谷さんのエッセイ集にくらべ、「書巻の気」が濃い目で、考証随筆の味わいも強くなっていたような気がする。だから、読み終えるのに少し時間がかかってしまった。
丸谷さんのエッセイは一種の読書エッセイと言えるだろう。面白い本を読んで、それを紹介する。あるいは本のなかで興味深い指摘にぶつかって、それを軸にアナロジカルに別の本へと飛びうつり、思いもよらないびっくりするような結論を導きだす。
本書のなかでとりわけ気になったのは、色川武大狂人日記』中の印象深い挿話を引いて、子どもの遊びの崇高なることを論じた「『ギネス・ブック』の半世紀」だった。このなかで言及されている『狂人日記』の挿話は、わたしも同書を読んだとき強く共感したものだったから、なおさら惹かれずにはいられなかったのである。
丸谷さんは『狂人日記』中の、色川さんが少年時代に自作のカードで架空の相撲社会をつくり、取り組みから場所運営、相撲部屋の経営に至るまで一人で遊んだという挿話を引用し、これにE・H・エリクソンの理論と、「鼻でオレンジを転がした距離」という奇妙な世界記録への執着を結びつけ、色川少年の営みをこう意義づける。

言ふまでもなく、この男の子の構築する架空の大相撲こそ、少年が崇高にして全能なる者となつて世界に君臨する夢想の、哀れな現実なんです。(247頁)
わたしも子どもの頃、「力士消しゴム」で番付を編成し、架空の大相撲を興行したことがある。また、架空の公家たちを創って、彼らを官職表にあてはめ、サイコロ一つで身分を上下させたり、また実在の囲碁棋士たちにリーグ戦を組ませ、これまたサイコロ一つで架空の囲碁タイトル戦を行なっていた。先ごろ惜しくも亡くなられた加藤正夫さんが贔屓だった。
こんなふうにわが少年時代の一人遊びを思い出し、そうか、あれも「崇高にして全能なる者となつて世界に君臨する夢想」のあらわれなのかと納得した。
同じ文章で丸谷さんは、ギネス・ブックの熱心な読者が8歳から12歳までの男の子であることを紹介している。かつてわたしも一度だけギネス・ブックを買った(買ってもらった?)ことがあるが、たぶんその年齢にあてはまるのではないか。わたしの少年時代の思い出も、見事にエリクソン−丸谷理論に適合してしまうことに、驚き呆れてしまう。
ところで、丸谷さんはこうしたエッセイをどのように着想し、組み立て、執筆するのだろう。『思考のレッスン』(文春文庫)という語り下ろしの本があるけれど、これに書かれていたかしらん。単行本を古本で手に入れて読んでからずいぶん経っているので忘れてしまった。文庫本で読み直そうと思いつつ、果たせていない。
こんなことを考えたのも、「ミイラの研究」という一篇を読んだからだった。福澤家の墓所を改葬するので福澤諭吉の墓を掘り返したところ、なかからほぼ完全に屍蝋化した諭吉のミイラが発見されたという話が発端。
諭吉のミイラは解剖されぬまま火葬されてしまい、研究に役立たなかったので残念としたうえで、話はレーニンのミイラの話に移る。スターリンレーニンの遺体のミイラ化を主導したという挿話から、ツタンカーメンのミイラに話が飛ぶ。
王のミイラとしてツタンカーメンは格が高いが、それよりなお格が高いのは…ということで、次にイタリアの高山地帯で見つかった5000年前の男のミイラが登場。それぞれのミイラを紹介した文献からひととおり「受売り」したあと、この5000年前の男に付けられた愛称が「エッツィ」(エッツ渓谷の雪男だから)というものであったことに満足の意を示し、やおら福澤諭吉のミイラ話に戻るのである。
彼のミイラが三田のキャンパスのどこかに展示され、塾生たちからユッチーなんて呼ばれたら、やはり変でせう。しかし、先生は案外、喜ぶかな?
そこで宿題を二つ。
一、福澤先生のミイラと対面して折口信夫の詠んだ短歌一首を作れ。
二、福澤先生のミイラが女の塾生たちからユッチーといふ綽名で親しまれてゐるのを聞いて、西脇順三郎の書いた詩(約十行)一篇を作れ。(116頁)
そこで問題。この文章のなかで作者丸谷才一さんがもっとも言いたかったことを50字以内で説明しなさい。
いや、そんな問題を出したくなるほど、ここで丸谷さんが力点を置きたかったのは何の話なのか、あれこれ考えてしまったのだ。これは、「何を言いたいのかさっぱりわからない」という意味ではなく、丸谷さんは何の話に最初に目をつけ、この文章を組み立てたのだろうという関心によるものである。
中学生や高校生の国語の試験でこの「ミイラの研究」を読ませ、上のような設問を作ったら、いろんな回答がありそうで面白いかもと想像し、ひとりほくそ笑む。
案外、福沢諭吉のミイラについての本(土屋雅春『医者のみた福澤諭吉中公新書)を読み、いっぽうで、イタリアのミイラが「エッツィ」と呼ばれていることを知って(もしくはそのことを思い出し)、ならば諭吉のミイラは「ユッチー」か、なんて語呂合わせの思いつきが出発点かもしれない。
なお、折口信夫の短歌も、西脇順三郎の詩も、模範解答は示されていない。