戦争は人を変える

東京の下町

ちくま文庫吉村昭さんの『東京の戦争』*1が入った。小林信彦さんが解説を書いているということもあって読もうと思ったが、この本に先行する回想エッセイ『東京の下町』*2(文春文庫)のほうが先だろうと思い直し、そちらを先に読むことにした。年頭買い込んでそのままになっていたのだ。
『東京の下町』に興味を抱いたのは、当の小林信彦さんのエッセイを読んだのがきっかけである。『本は寝ころんで』*3(文春文庫、→2004/12/28条)だった。
小林さんは本書のなかで、吉村さんが高勢実乗が真面目な役で出演していた映画「旅役者」(成瀬巳喜男監督)を観たというくだりに触れている。原典にはこう書かれてある。

高勢実乗というドタバタ喜劇にさかんに出演していた役者がいたが、「旅役者」という映画の演技には驚いた。まじめな演技で旅役者の座長を演じ、これがいかにもうらぶれた一座の長らしく、その見事さに感心した。馬の脚をやるのが藤原釜足と柳谷寛で、これも哀感がにじみ出ていた。(「其ノ三 町の映画館」)
「旅役者」は以前ラピュタ阿佐ヶ谷で観たが、たとえ驚くべき見事な演技だとしても、高勢実乗の本領はこういう役柄にはないのだろうと思う。とはいえ、日本映画専門チャンネルの成瀬特集で流されたものもちゃんと録画して保存するつもりでいる。
さて、本書を読みはじめて「しまった」と悔いた。読書途中(ちびちび読んでいるので、まだまだ前半三分の一くらいだ)の都筑道夫『推理作家の出来るまで(上)』*4(フリースタイル)のなかの記述に通じるような内容だったからだ。並行して読んでいる本は、なるべくまったく違ったジャンルのものを選びたい。
ちょうど都筑さんの本は戦時中の暮らしぶりや学徒動員にさしかかったあたりまで進んできており、昭和初年の東京に生まれ育った人同士の回想エッセイだから、似た印象はまぬがれない。吉村さんは昭和2年(1927)日暮里生まれ、都筑さんは昭和4年関口水道町生まれ、ちなみに小林信彦さんは昭和7年東両国生まれである。
吉村さんは東京の下町といっても、「いわば、江戸町の郊外の在方であり、今流の言葉で言えば場末」にあたる日暮里で、都筑さんは山の手と接するような江戸町の中の下町育ちだから、暮らしに微妙な色合いの違いがある。その違いを楽しめばいいし、また似ているとはいえ、逆にふたつの間に共通点を見いだし、戦前の少年たちの生活史を夢想するのも一興だろう。
たとえば、「其ノ十 食物あれこれ」における近所の八百屋の話。吉村家とその八百屋は懇意にしており、「店主夫婦は愛想がよく、働き者だった。誠実で、常に笑顔をたやさず、私もその夫婦が好きだった」(127頁)という。
ところが戦争は人を変えた。戦局が悪化して食糧が不足しはじめた頃、夫婦の態度は一変し、吉村さんがお使いでその八百屋に買物に行っても、「売りたい人にしか売らない」とにべもなく断られる。
少年の私は、人がそれほど変るものか、と驚き、そして恐しさも感じた。その八百屋は、金を多く出す人にのみ売り、長年の顧客であるかどうかは、問題外であったのである。(128頁)
このくだりを読んでいて、都筑さんの本にあった挿話を思い出した(「兄と弟のいる風景」)。都筑さんにも似たような経験があったのだ。都筑さんの場合近所のお菓子屋さんの話で、昭和14、5年頃、甘い物が窮乏しつつあったおりから、菓子屋が一人につきキャラメル一個とビスケットひと袋を売ってくれるという情報を得、父親に命じられ都筑さんと弟さんが二人で駆けつける。
購入は厳密には一軒につきで、名刺を持ってこなければ売らないとあって、弟が父親の、都筑さんは家にあった叔父の名刺をもって出かけた。自分のところまで残っているかとハラハラしながら見守り、ようやく自分の番近くまで来た。「のぞいてみると、以前は愛想のよかった店の主人が、無表情に客から名刺と金を受けとって、紙袋を渡していた」(156頁)。
ところが二人が無事菓子を買ったあと、後ろから「そのふたりは兄弟だよ。一軒でふたりで買いに来てるんだよ」と告発の声があがる。振りかえるといつもはやさしい近所のおばさんが別人のような顔で立っていた。結局一人分取り上げられてしまい、帰宅後父親に叱られるという苦い思い出。この体験を都筑さんはこのように回想する。
わずかビスケットひと袋で、やさしい隣人が冷たくなるのだ、という認識は、子どものこころに重かった。(157頁)
当時の商人の豹変ぶりは、わすれられない。きのうまで、ペコペコして配達にきた米屋が、配給制になったとたんに、言葉つきから態度まで、横柄になった。(同上)
子どものころこういう体験をするかしないかで、その人の人間に対する認識はまったく別のものになるのだろうな。
さて、吉村さんの本に戻れば、やはりこの本も実に細かく子どもの頃の暮らしが書きとめられている。記憶力がいいと言うべきなのか、このくらいの年齢になると、誰しも子どもの頃の思い出が鮮明になってくると言うべきなのか。
もっとも都筑さんにせよ、吉村さんにせよ、後年獲得した知識によって記憶を補正してしまい、誤って憶えていたり、まったく違う時期の話をつなげていたりという場合も少なくないようだ。こうした回想エッセイの出来は、たんに記憶の良し悪しだけでなく、その記憶をいかに筋のとおった挿話として他人に伝えられるかという文章力・構成力に大きく依存するのだろう。
吉村さんの本で印象に残ったエピソードに、原節子の目撃譚がある。吉村少年はある日、あまり自分の好みではなかった原節子を実際に電車のなかで見かける。
彼女は吊革をにぎり、顔を伏せぎみにして本を読んでいた。車内の乗客は気づいていて視線を走らせるが、それも控え目で、無遠慮に見つめる者などいない。
私は、彼女の肌がすきとおるように白いのに驚いた。化粧をしない素肌だが、気品のある白さで頬がほんのり桃色をしている。女優とは思えぬつつましい知的な感じで、体の線が柔らかそうだった。やはり原節子は大人たちの言う通り美しい人なのだ、と思った。(45頁)
昭和20年4月13日の空襲で、日暮里は焼土となる。吉村さん一家は谷中墓地に逃げ込むが、墓地の桜はちょうど満開の時期を迎えていた。家を焼き尽くす炎で空が真っ赤に染まり、頭上を見上げた吉村少年はびっくりする。「桜が鮮やかな桃色に染っている。妖しい美しさで、この世のものとは思えぬ艶かしい色であった」(165頁)から。
東京に対する空襲があった3月や4月は、本来であればこういう春爛漫の季節であった。あとから歴史として空襲の事実を知るわたしたちにとって、ただただ悲惨な状況しか印象に残らないのだが、いっぽうで、こうしたディテールの鮮やかさによって生々しい空襲体験を伝える文学があることも、心にとめておきたい。
最後に、少年の目には何を売っているのかわからなかったという、定斎屋(薬の行商人)のイメージ。
大関若嶋津が土俵上で塩をとりに行く足どりをみるたびに、定斎屋の一歩一歩区切りをつけるように歩いてゆく姿を思い出す。(70頁)
成瀬映画を見ていると、かならずと言っていいほど、シーンの変わり目ごとにこうした町の行商人が路地を売り歩いている姿が映し込まれていて、わたしはそれで戦前から戦後にかけての物売りを想像するのであった。