君知るや名酒泡盛

古酒新酒

国立大学が「国立大学法人」となって1年が過ぎた。教職員は国家公務員から非公務員になり、「教官」という呼び方も「教員」と変わって、ようやく慣れてきたところである。
これにより各大学も経営努力が求められ、中身より先に、外の人に見えやすいところから変化が始まっている。キャンパス内の道路や植栽などの整備や、広報活動などがそれだ。東京大学を例にとれば、赤門入ってすぐ左の建物が「コミュニケーションセンター」に改装され、中では東大グッズが展示販売されている。
内部者だから、外の人向けの「おみやげ屋」に入る機会はほとんどないのだが、ここで売られている品物のうち、ずっと気にかかっているものがひとつだけある。「御酒(うさき)」という名前の泡盛である。4200円。同センターの売上ナンバーワンだそうだ。
帰省のさいのお土産として買って帰りたいと思いながら、ちょうどそういうときにかぎって品切だったり、値段も張るし、なかなか縁がないのである。
ところでなぜ東大で泡盛が売られているのか。泡盛は黒麹菌という菌の醗酵により製造される。「御酒」を作るもととなっている黒麹菌は、東大農学部教授で、のち同大応用微生物研究所(現分子細胞生物学研究所)の初代所長となった醗酵学の泰斗坂口謹一郎によって戦前沖縄の蔵元で採取された。
太平洋戦争の沖縄戦で黒麹菌が絶滅したと言われていたなか、坂口が採取していた菌が東大でなお生きたまま保存されていることがわかり、採取元の蔵元がこの菌をもとに戦前の泡盛の味を復刻、商品化することに成功したのが、「御酒」なのである*1
わたしは、醗酵学の権威で、文化勲章受章者でもある坂口謹一郎に関心があり、その著書を少しずつ集めていた。なぜ興味を持ったのかはいまでは思い出せないが、自分の専門とはまったく異なる分野の最高権威でありながら、一般向けの文章もよくする(最高権威だからこそ、一般向けの文章も素晴らしいと言い換えるべきか)碩学で、また歌人でもあったという面に惹かれたのだろう。
今回その著書のうち、『古酒新酒』講談社文庫)を読んだ。専門にわたる文章が意外に多く、読むのに難渋したが、一般向けを意識して書かれた文章はなかなか面白い。さすが第一人者らしく、世界のなかにおける日本酒の位置づけという点に意が払われているから、視野が広く洋酒と日本酒の違いがよくわかる。
泡盛については、「君知るや名酒泡盛」「尚家の紅麹」といった文章で触れられている。前者のなかで、黒麹菌採取のことが書かれており、沖縄の泡盛工場約60箇所から、200株の菌を採取したとある。

終戦直後渡欧の際、給油のため沖縄本島の上空を飛んで、これら世界唯一の黒麹菌の大宝庫である泡盛工場のあったところが、一望の焼野原となってしまったのを眺めた時、微力ながらかつての採集のことが想起されて無念でもあり、感慨まことに深いものがあった。(180頁)
といった文章を目にすると、沖縄になかったためかろうじて生き残った菌により作られた泡盛というのは、いったいどんな味がするのか、一度賞味したいという気持ちが沸いてくるのである。
専門的な話はあまりわからないけれど、たとえば同じ東大の先生たちとの酒を仲立ちにした交遊エッセイなどに、面白い文章がある。東大仏文の鈴木信太郎との交遊では、こんなことが書かれている。
東大の三四郎池のほとりに、通称山上御殿といういかめしい名の食堂があった。毎週の木曜日にはそこで全学の教授や助教授が膝を交えて会食をすることになっていた。鈴木先生とも隣席の光栄に浴し、お好きなワインのお話などに花を咲かせたりしたことが御縁のはじまりで、それ以来たまさかながら三十年の長い間のおつき合いとなった。(「鈴木信太郎先生と酒」)
今も「山上御殿」は山上会館という名前で残っていて、レストランもある。でもここで書かれているような、おごそかな慣行はすでに廃れている。ここで坂口は鈴木にこんな苦言を呈されたという。
特に日本酒の改良を要する点は、坂口さんもあまり下掛っているから言わないのかも知れぬが、はっきりと認識してもらいたいのは、日本酒飲用後の尿の不快極まる悪臭である。これは如何なる種類の酒の飲用後とも異なって、快適でない。こういう点はぜひとも坂口さんのような科学者に分析研究してもらって、臭気を芳香に変じる方法を講じたい。(257頁)
さすがに坂口は研究者で、これに対し本気で「臭気を芳香に変じる方法」を考えていたようだ。
書影を見てもわかるように、講談社文庫版のカバー装幀は田村義也さんの手にかかる。もとより坂口の初めての一般向けの著書『世界の酒』*2岩波新書)を担当したのが、岩波の編集者だった田村さんで、この『古酒新酒』の編集も田村さんが関与している。
坂口の没後岩波書店から出された著作集『坂口謹一郎酒学集成』の装幀も田村さんが担当している。これまたなぜか私は、このうちの第一巻「日本の酒文化」*3だけ持っている。『古酒新酒』から数編と、やはり岩波新書で出された『日本の酒』が収録されている。
坂口の歌人としての側面としては、歌文集『愛酒樂酔』*4講談社文芸文庫)があって、この本で自伝的文章の「私の履歴書」も読める。この本は岡崎武志角田光代『古本道場』(ポプラ社)でも紹介されている鎌倉の公文堂書店で手に入れた。じりじりと焼けるようなその日の暑さと、埃っぽい海岸沿いの通りにある昔ながらの古本屋というイメージが懐かしい*5

*1:以上は、蔵元の琉球泡盛 瑞泉酒造 公式オンラインショップのサイトに拠った。

*2:ISBN:4004151082/わたしはこの本を青版復刊フェアで購入した。2002年6月の第29刷。

*3:ISBN:400026186X

*4:ISBN:4061961721

*5:なお、坂口の郷里新潟県上越市に坂口記念館という施設があるようだ。→http://www.city.joetsu.niigata.jp/kubiki/index.htm