今度こそ荷風本最終兵器?

父 荷風

今年1月に「〈書評〉のメルマガ」連載「読まずにホメる」*1で「荷風本の最終兵器?」と題し草森紳一荷風永代橋*2青土社)を取り上げたあとも、魅力的な荷風本刊行がなおやまない。
最近出た持田叙子『朝寝の荷風*3人文書院)、川本三郎・湯川説子『図説 永井荷風*4河出書房新社)2冊を「世に荷風の種も尽きまじ」と題しふたたび取り上げたばかりだというのに、その直後また荷風本が出た。しかもこれこそ堂々たる「最終兵器」だ。
その本とは、永井永光さんの『父 荷風*5白水社)。永光さんは荷風永井壮吉の養子で、荷風没後住んでいた市川の家や『断腸亭日乗』原本などの財産を相続した。
著者は荷風の従弟で長唄三味線方の杵屋五叟(大島一雄)の次男として生まれた。荷風の父久一郎と五叟の父久満次が兄弟で、久満次は大島家に養子に入り、一雄をもうけた。久満次もまた官吏で、台湾民政長官を経て神奈川県知事になるという高官だったという。
荷風と五叟には26歳の年齢のひらきがあったものの、役人が多く真面目な永井家のなかで「遊び人」同士ということで、二人はウマがあった。五叟は荷風を「先生」と呼んで尊敬し、荷風も麻布偏奇館が戦災で焼失したとき、代々木に住んでいた大島家を頼る。
永井家に戻りたいと考えていた五叟と、死後義絶していた実弟(ああ、ここでも男兄弟の喧嘩だ)に遺産がわたることを阻止したい荷風の利害が一致し、昭和19年に永光さんの養子縁組がまとまった。永光さんは当時まだ12歳で、養子縁組後も大島家で生活を続けていた。
著者は、谷崎が荷風に贈った「断腸亭印」を偏奇館の焼け跡から掘り出した人であり、代々木の家も戦災で失ってからは、戦中から戦後にかけ熱海・市川と大島家と荷風は行動を共にするなど、晩年の荷風をよく知る重要人物なのである。当然『断腸亭日乗』にも、五叟の子としてときおり登場する。
戦後市川で同居生活をするなか、大島一家が聴くラジオの騒音や三味線の音を厭った荷風が大島家と訣別し、一人暮らしを始めたあとも養子関係は存続し、荷風の死を迎える。死後遺産をめぐり永光さんは悪者扱いされ、マスコミに叩かれたときの苦しい胸の内が本書で初めて吐露されている。
荷風の「身内」がこのようなかたちで荷風を語った本は絶後の本となるのかもしれない。永光さんが語る荷風像、そして戦中から戦後にかけての代々木や熱海、市川での生活ぶりが克明に再現されている。なぜこの世代の人はこんなに記憶力がいいのだろう。
たとえば、荷風が晩年履いていた靴のサイズが30センチ(!)だったとか、戦後の食糧難で空腹のあまり荷風は大島家の食糧を失敬していたとか、話し好きで、時々大島家の部屋に来ては「正座をしたり、柱に寄りかかって膝を立て、手で足を抱え込んで話して」いた(荷風は胡座ができなかったという)など、ひとつひとつのエピソードがいずれも興味深いものばかり。
食糧を失敬していたという挿話には、こんな笑い話がおまけとして付いている。

あるとき家のうどん粉を入れて量を増やそうとして、間違えて磨き砂を入れたことがありました。それを私たちに言えない荷風は、やせ我慢をしながら食べていました。荷風研究家の秋庭太郎さんが、熱海の店先で荷風がジャガイモをくすねたと書いていますが、そういうことは平気でやる人でした。(117頁)
否定するかと思いきや、肯定してしまう。「いろいろな本に荷風はケチだと書かれていますが、それはほんとうです」(149頁)と、身をもって体験した荷風の吝嗇ぶりを示す挿話まで紹介されている。
出版社からの手土産を大島家には決して分けることはなかったとか、そうして貰った好物のカステラを食べきれず、でも分けることもなくそのままにしていたため、永光さんらは「三、四センチもの厚さのスポンジのような白カビが生えている」カステラを荷風の部屋で目撃したとか、容赦ない。
別に永光さんは荷風に冷たくあたっているのではない。本書を読むと、『断腸亭日乗』原本をはじめとする荷風の遺品が良好な状態で保存されているのも、永光さん(とご家族)の努力あるゆえであることがわかる。
永光さんの記憶をもとに、多くの荷風本で知られる松本哉さんが代々木や市川の詳細な地図を描き、本書に収載されている。松本さん描く地図は、相変わらず散歩欲を刺激する。いま、本書を携えて市川の「荷風遺跡」を訪ね歩きたいという衝動にかられている。
本書は永光さんに対するインタビュー速記をもとに文章化されたもので、その場には松本哉さんや白水社編集部の和気元さんが同席したという。白水社の文芸書のあとがきを見るとたいてい和気さんの名前が出され、著者から謝辞が贈られている。
手近にある白水社の本を見ても、和田誠『装丁物語』*6しかり、松本哉『女たちの荷風*7しかり、矢野誠一文人たちの寄席』*8もそうだ。つい最近では、澁澤龍子『澁澤龍彦との日々』*9(→5/1条)にも登場する。
とりわけ『澁澤龍彦との日々』の「あとがき」には、龍子さんは和気さんから「僕だってもうすぐ定年、生前の澁澤さんを知っている編集者もどんどんいなくなります。ぜひここで一冊まとめておきましょう」という強力なプッシュがあって執筆を決意したことが紹介されている。
本書『父 荷風』も、あるいは編集者和気さんの執念の賜物なのだろう。『澁澤龍彦との日々』にせよ『父 荷風』にせよ、故人の身近にいた人による回想録として、とてもすぐれた本である。当分の間白水社から出る本は要注目だ。