親との対話、子との対話、自分との対話

明日があるさ

重松清さんのエッセイ集明日があるさ*1朝日文庫)を読み終えた。
本書の元版は『セカンド・ライン』という書名で、「文庫版のためのあとがき」によれば、「バラエティ・ブック」として、マンガ雑誌のようなザラ紙を何色も使い、本文の組み方やフォントも、明朝体の一段組みからゴシック体の三段組みまで、手間ひまをかけて(ママ)りまくった」ものだという。残念ながら現物に出会ったことがない。
文庫化にあたり、文章を半分近く削り、連番の数字でしか示さなかった各エッセイのタイトルを新たに付けるなどの作業が加えられているということだから、まるっきり違う本になっているとみなしてもいいのだろう。
さてわたしは重松清さんの小説の愛読者である。読むたび胸を熱くさせられ、泣かされている。このあたりは、『ビタミンF』(2003/7/28条)や『流星ワゴン』(2003/12/7条)の感想に詳しく書いた。
重松さんが書く物語に共感をおぼえ、作中人物に同化し、はてははらはらと涙までこぼしてしまうのは、4歳年上(5学年上)という年齢差と、小さな子どもを持つ親の視点で、自分の子どもや、自分の親との関係、さらに妻や同級生たちとの関係をとらえているという作風にあるのだと思う。
5学年上という年齢差を同世代と言っていいかどうかわからないが、小学校で多少重なるわけだから、同世代と言わせてもらうことにする。それに、わたしは重松さんの「ちょっと遅れた読者」であるので、文庫化された作品に登場する主人公(だいたい作者の年齢に近い)と自分の年齢がほぼ同じ(30代後半)だから、なおさら身につまされる。
今回のエッセイ集を最初から読みながら、やはり小説とは違って味わいの薄さを感じ、重松さんは断然小説がいいと思っていた。ところが読み進むにつれ、心の奥深くにバシバシと突きささってくるようなテーマ、文章が次第に多くなり、最後のほうではまたしても目頭を熱くした。電車のなかで読んでいて、涙をこらえるのに必死だった。
父方の祖父と母方の祖父、二人の祖父の人生をしみじみと語った「田村章岡田幸四郎」や、父について愛情込めて綴られている最後の「ぼくは昔「ポン」と呼ばれていた」などがとくにそうだ。自分が父になることで、父が若かった頃を思い、さらにそこから祖父が若かった頃まで想像をめぐらせる。自分一人のうえには、確固たるそれぞれの人生が積み重なっていることを知る。

二十八歳のときにぼくは父親になり、父は「おじいちゃん」と呼ばれるようになった。親になってからの日々は、時間が重層的に流れる。小学五年生の長女を見ていると、小学五年生の頃の自分を思いだし、その頃の父のことも思いだす。四歳の次女を見ていると、同じ歳の長女の姿が重なり、長女が四歳の頃の自分と、その頃の父がよみがえる。四歳だったぼく自身と当時の父は、二度目の登場になる。(261頁)
そう、重松さんの小説はだいたいこんな「重層的」な視点で、家族がとらえられる。もちろん親になどならずとも、この視点を獲得することは可能である。ただ、親であればこうした重層的な時間の流れを自覚するきっかけが多くなることも事実だ。
「本を見上げる少年」という一篇では、小学四、五年生の頃、デパートのある町に家族で出かけたとき、その町で一番大きな書店に入ったことの思い出が懐かしさとともに綴られている。
自分の背丈よりはるかに高い位置にある書棚を見上げる「小学生のぼく」にむかって、「そんなことしてて面白いかい」とあきれたように笑いながら、「三十五歳のぼく」が語りかける。重松作品を重松作品たらしめている重層的、複眼的な視点の要諦はここにある。昔の自分との対話。いまの自分と同じ年齢だった頃の父親との対話を主題にした『流星ワゴン』が書かれたのは必然であった。
さらに、たいていのエッセイには、「三十☆歳のぼく」というように、その文章が書かれたときの年齢が明記されている。年齢への意識、世代への意識の強さ。小説でもこれは変わらない。繰り返し三十代後半の「おじさん」になりつつある男の喜びや哀しみが書かれているから、登場人物の年齢、世代を意識しないわけにはいかなくなるのだ。
そんな年齢意識に、「同年代」のわたしは敏感に反応してしまう。たえず自らの年齢と子どもの年齢を意識し、そのときどきの家族のあり方を、自分が子どもだった頃の家族に重ね合わせて想像してみる。その根底には、次のような家族のささやかな幸せを見逃すまいという強い意志が存在している。
多くは望まない。ごくあたりまえの暮らしのなかで家族そろってカレーライスを食べられる夜を、ぼくは「幸せ」と呼ぶ。そんな夜が、どこの家でも、いままでどおりに、これからもつづいてくれればいいな、と思う。そして、ゆうべまでの「幸せ」を一瞬にして奪われてしまったひとたちのことを思って、ぼくはこれからもときどき、ひどくしょっぱいカレーライスを食べるだろう。(234頁)
自分のような、読んだだけで無条件で胸が熱くなる存在がいるいっぽうで、重松作品にまつわるある種の「甘さ」「感傷」を受けつけない人もいるに違いない。泣かせようとするあざとさを読み取り、目をそむける人もいるだろう。とはいえ、やっぱりわたしはこの「重松文学」と長くつき合えればいいな、と願っている。