きりきりバスに乗りたくなって

バスで田舎へ行く

先日読んだ滝田ゆう『昭和夢草紙』*1新潮文庫、→5/19条)のうちの一篇「裏町バス通り」に、次のような一節がある。

あのくねくねと町中を走って行く、あの頃のバスというものは、なんでこんなとこまで入って来るのかと思うほど、ややっこしい道筋を平常の路線としていて、もちろんはじめは電車通りを走っているのだが、曲るたんびに、だんだん道幅が狭くなっていき、ついには、当のバス一台がやっと通れる程度の裏通りというか、横丁というか、うまいこと徐行しながら通り抜け、突如、タバコ屋と金物屋の間なんぞからグリグリグリィーッと現われたりして……。(273頁)
滝田さんが「グリグリグリィーッ」という擬態語で表現した、道路両側の建物の軒をかすめて通るような路線バスの動きについては、「バス・フェチ」を自認する泉麻人さんは「キリキリ」という言葉で表現している。
これについては、東京都内の路線バスめぐりの快著『大東京バス案内*2講談社文庫、旧読前読後2001/3/19条)によく登場する。「きりきりと走行する」(183頁)という副詞的使い方をすることもあれば、バスの走る狭い道を「きりきり道」と表現したりする。
「グリグリグリィーッ」の場合、狭い道を通り抜けようとする強引さ、力強さのような語感があり、「キリキリ」の場合、そうした場所を腕を使って通り抜けようとする技巧派的語感がある。いずれにせよ狭い道を無理して通り抜けようとする状態をあらわす言葉として、見事と言うほかない。
わたしは東京に来てからバス乗りの快楽を知った。上記『大東京バス案内』の泉さんにみちびかれてのものである。鉄道と違い、なまじ路線バスに「定刻発車」の思想を求めてはいけない。求めること自体無理な話ではあるのだが、つい「定刻」を大幅に遅れているバスに苛立ってしまうことがある。
バスという公共交通機関を使うことは、第一に心に余裕を持たなければならない。余裕を持てない人にバスは不向きである。むろん生活上バスが不可欠という人である場合、そんな条件は通用しないだろう。東京歩きを愉しもうという立場から言えばの話だ。
自家用車という足のないわたしにとって、鉄道を基点にして東京散策するだけでは、とうてい東京を知り尽くすことはできないことに気づいた。鉄道駅からだいぶ離れた場所にもたくさんの見所はあり、商店街があり、住宅地はあるのである。バスに乗っていると、そんなことがよくわかってくる。
泉さんの新著『バスで田舎へ行く』*3ちくま文庫)は、この精神を地方にも広げた、これまた楽しい紀行だ。鄙びたローカル鉄道ですら届いていない、公共の乗物はバスしかないような町や村はまだまだ多い。地図を広げてそんな町を見つけては、バスに乗るという目的のためにそこを訪れる。
そうすると思わぬ発見があるのが、旅の醍醐味のひとつだろう。そして地方にも「きりきり道」があって、乗りながらスリルを味わう。「きりきり道」を見つけたら、下車してバスがきりきり走るシーンを写真におさめる。
地方には都会にない楽しみ方もある。商店街や住宅地から路地をひとつ曲がると、その先には予想もしなかったように、奥深い山道につづいていたり、平坦な田園風景が広がっていたりする。そんな出会いを味わう泉さんの筆も冴える。
鉄道駅近くの繁華街を外れて、ずんずんと奥地へと入りこんでいく――あの、なんというかドラクエ隠れ道に入りこんでいくときのような感覚がたまらない。(「登米「宮城の明治村」へ時間旅行」、太字の箇所は原文傍点)
また、都会を走る路線バスとは異なる、地方のバスならではの味わい方もある。一時間に何本もある便ではないから、気まぐれな途中下車もままならない。
なにせ、一旦バスを降りてしまうと、次のバスまでの時間をかなり費やさなくてはならない。車窓から一見して、〝当たりクジ〟をひきあてる。交通便の悪いローカルバスの旅は、観察眼とイマジネーションを駆使した、一種の賭けである。(「津軽紀行 イカと太宰と温泉と」)
ああ、やっぱり泉さんの「バス本」は面白い。すでに解説の実相寺昭雄さんが『大東京バス案内』と本書を「わたしが座右に置く泉さんのバス二大名著」と書いているが、まったくその通り。また身近な「バス旅」の誘惑にかられている。