待ち伏せ体験の喜び

続・詩歌の待ち伏せ

北村薫さんの『続・詩歌の待ち伏せ*1文藝春秋)が出るというので、いつも本を買うお店に入るのを待っていたのだけれど、なかなか入らない。「あれ、まだ出てないのかしらん」と調べてみると、すでに大書店には入っている。もう少し待ってみようと我慢しているうち、一週間が過ぎてしまった。
いったいどういうことなのだろう。業を煮やして最寄駅近くの、ふだんあまり立ち寄らない本屋に行き、買ってしまった。いつもの本屋で同書の「待ち伏せ」を受けなかったことをはなはだ遺憾に思う。
本好きの人であれば、日常生活のなかで“本読み的偶然”とも言うべき現象に遭遇したことが一再ならずあるに違いない。“本読み的偶然”というのはいま思いついた造語で、もっとも明瞭な事例としては、ある本を読んでいて気になった本が数日後古本屋で偶然見つかったといったようなこと。
これは本と本の結びつきでなくともいい。本を読んで気になったことが、忘れぬうちにテレビ番組で取り上げられたり、生活のなかでふと浮かんだ考えについて、たまたまある本を読んだらそこにその思念を敷衍してくれるような鍵がひそんでいたり。
北村さんはこれを「待ち伏せ」と表現する。待ち伏せと言うと受動的なニュアンスをイメージしてしまうが、むしろ本書の場合、あちら(つまり本)のほうがわたしたちを能動的に待ち伏せしているというふうに考えたほうが、作者の意図にかなっている。
いろんな本を読めば読むほど、待ち伏せに対する感度が鋭くなる。あちこちに待ち伏せの要素がころがっているのである。前著『詩歌の待ち伏せ』上下巻を読んだとき、わたしは次のように書いた。

この「待ち伏せ」体験は快感以外の何者でもなく、思い出して反芻するたびにそのときの興奮や嬉しさがよみがえってくる。言葉や文章との偶然の出会いを「待ち伏せ」と表現してその楽しさを掘り起こしてくれた北村さんは、やはり私にとってよき案内者である。(旧読前読後2003/10/26条)
さて今回の続巻もまた、待ち伏せ体験の喜びを語って倦むことがない。本を読んだり、またテレビを見たりラジオを聴いたり、そんな体験を積めば積むほど待ち伏せされる機会が無限に増えてくる。本好きであれば、そうした体験を同好の士に自慢したくなるに違いない。北村さんは、「こんなこともあったよ、それにあんなことも…」と嬉々として興奮の待ち伏せ体験をわたしたちに教えてくれる。
むろん私が以前書いたように、待ち伏せされていても気づかず通り過ぎることだってあるだろう。しかしながら、本を読むことで好奇心というアンテナを絶えずみがいていれば、誰だってこの待ち伏せの快感を味わうことができるのである。
本書では、プレヴェールの詩篇「朝食」(「朝の食事」)や、藤原実方藤原行成清少納言の三角関係をめぐる話、堀口大學の「蝉」に書きとめられた夏目漱石像の創られ方の話、アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホスというドイツの詩人の「因果応報」という詩篇をめぐるミステリ的解釈など、何回かにまたがり続けて書かれた、つまり何回も波状的に「待ち伏せ」を受けた体験談が語られ、印象深い。
夏目漱石の虚像がまわりの人間によって増幅され伝承されるという話に関連して、第十八話では、古今亭志ん生の自伝的聞書『びんぼう自慢』で語られている挿話が、実は当時の新聞報道にあったまったく無関係の記事(北村さんはこの記事に待ち伏せされた)を自らアレンジして自分の体験にしてしまったらしいことを指摘し、そこに志ん生「《古今亭志ん生》というひとつの像を作ろうという、完璧な意志」を認め、巨人の芸を見定めるというスリリングな推理が展開される。
逆説的かも知れませんが、わたしは、この蚊帳の件を知った時、だからこそ『びんぼう自慢』は真実の書だと思いました。どう走って追いかけたところで、我々は、志ん生の歩みに追いつけるわけがないのだ――と嬉しくなったのです。(191頁)
こうした肯定的な解釈は、北村さんの暖かな人柄を如実に反映している。
本書で語られる待ち伏せ体験、“本読み的偶然”体験は、何日とか何ヶ月といった時間の接近したものばかりではない。たとえば上述の「因果応報」をめぐる待ち伏せ譚は、「はるか昔」読んだ岩波文庫の一冊の記憶と、約20年前に地下鉄の車内広告で見た世界の紙幣の図柄、そして現在、書店の詩歌の棚で見つけた一冊の本が結びつき、「縁を感じて」その本を買ってしまったという話で幕を開ける。
待ち伏せには時間など関係ない。こんなスケールの大きい読書エッセイに触れると、いま読んでいる本たちの記憶は、いずれ将来の自分を待ち伏せることになる本を引き寄せる磁石になってくれるかもしれない。だから決して無駄ではない、そんな愉しい気分にさせられ、ますます雑読に励もうと思うのであった。