川男の物語

川筋物語

文庫に入った重松清さんのエッセイ集『明日があるさ』(朝日文庫)を買おうとして、同じ朝日文庫の新刊として隣に積まれていたシンプルなデザインの本が目にとまった。佐伯一麦さんの『川筋物語』*1という本である。
帯には「仙台に戻り、みちのくの山や川を歩きつつ、その風土と歴史を成熟した目と筆致で描く、連作による長編小説」とある。「仙台」「みちのく」という言葉は言うまでもなく、「連作」という語にも弱い。
佐伯一麦という作家の名前を聞いたことはあるが、作品を読んだことはなかった。著者紹介を見ると、1959年仙台生まれで、宮城県随一の進学校仙台一高を中退とある。海燕新人文学賞・野間新人文学賞三島由紀夫賞木山捷平賞・大佛次郎賞という輝かしい受賞歴を持つ作家だ。伊坂幸太郎さんや熊谷達也さんのような宮城出身作家が最近目立つような気がする。
ページをめくって目次を確かめると、見覚えのある地名がずらりと並んでいる。

面白山(おもしろやま)/作並/磐司(ばんじ)/秋保(あきう)/定義(じょうげ)/愛子(あやし)/牛越橋/琵琶首/花壇/鹿落坂(ししおちざか)/大年寺/高舘熊野堂/若林古城(わかばやしふるじろ)/閖上(ゆりあげ)/アーケルス川
自分には当たり前に読める地名が並ぶが、いまこうして引用してみると、難読地名ばかりであることに気づく。もちろんわたしも、最初の「面白山」を除き、仙台に住むようになってはじめて読み方を知ったのだが。
面白山とは、仙台市山形市の境、つまり宮城・山形県境の奥羽山脈にある山の名前で、仙台と山形を結ぶ鉄道仙山線では、ちょうどこの県境に「面白山トンネル」がある。宮城側から同トンネルを抜けるとすぐ、山形側に面白山高原駅が設けられている。
本書は山形側からこの面白山を眺めるところから始まる。トンネルを抜け宮城県側に出ると、その付近に、仙台市貫流する広瀬川の水源がある。仙山線はこの広瀬川の流れに寄り添いながら仙台へと向かっているが、本書収録の各篇も、川の流れにおおよそ沿いながら、海に流れ出るところまでつづいてゆく。最後から二つ目の「閖上」は広瀬川を合わせた名取川が太平洋に出るところにある海岸の地名だ。
主人公は喘息持ちの男。物語の最初の頃は配偶者も子どももいたけれども、川を下ってゆくうち、すなわち時間が進行してゆくにしたがい、離婚し、独り身となる。カバー裏の案内では、「現代で最も真摯に「私小説」を追究する作家」とあるから、モデルは本人なのだろう。
物語の最初のうちは、「私」を語り手とする一人称体だったから、小説(私小説)というより、紀行文に近い印象を受けながら読んでいった。それがいつのまにか「男」を主人公とする三人称の小説となっていく。川が海に近づくにつれ、作者としての「私」と、物語の主人公が乖離する。
すでにこのことは、「一読者から」と銘打たれた「橡少ヱ門」なる仮名の人物による解説で喝破されている。当初の主人公だった「私」が、読み進めるうちいつの間にか「男」に変じ、「最後の数行で再び顔を出すまで、「私」は「男」に主人公の座を譲り続ける」としたうえで、決して遡行することのないこの物語を「作者が「男」の物語を、過去という時空に葬るべきでないことを熟知しているから」と解釈する。
自分の思い出に引きつけると、定義や秋保、愛子、牛越橋、花壇、鹿落坂、高舘熊野堂などの場所にそれぞれ忘れがたい思い出がまつわっており、懐かしさを感じながら、この静謐な物語を読んでいった。いっぽうで、あれだけ長く住んでいても磐司・琵琶首という地名を初めて知ったし、古城や閖上は訪れたことがない。仙台に忘れ物をしてきたような、そんな悔恨が浮かんでくる。
川の流れを下りながら物語の時間も進行するという連作の趣向の面白さもさることながら、巻末の著者によるエッセイ「川に佇む心」において、海の男、山男と並ぶ概念として「川筋者」という言葉が提唱され、そのユニークさが心に残った。九州筑豊地方の、「石炭の採掘と輸送を中心にして醸成された荒っぽい川筋気質」の人間を指す独特の表現らしい。
なお、わたしの目をこの本に向けさせるきっかけとなったシンプルなカバーデザインは、クラフト・エヴィング商會吉田篤弘さんと吉田浩美さんによるものだった。納得。