小説家の歌声

決定版三島由紀夫全集41

ある日、子どもたちも寝静まった時間に、疲れ果てて帰宅した。もう何もせず風呂に入って早く眠りたい。ただ、今日手に抱えてきた本は、この暗く落ち込んだ気持ちをひょっとしたら上向きに変えてくれるかもしれない。そんな期待を持ちながら、そそくさと風呂に入り、冷蔵庫からビールを取り出し、このところほとんど使っていなかったCDプレイヤーの蓋を開け、CDをセットした。
あれ、気分を変えてくれるのは「本」ではなかったのか。いや、「本」であるが、中身はCDなのである。それは、『決定版 三島由紀夫全集41』*1(新潮社)。三島由紀夫の講演や朗読、歌唱などの音源が収められたCD7枚から構成される「音声編」だ。
この新三島全集は、『幸田文全集』(岩波書店)や『小沼丹全集』(未知谷)と並行的に出ていたため、ふところの都合から毎月購入することは叶わなかった。いよいよ残すところあと2巻となり、それらは年譜・補遺など編集に時間がかかるものであるため、今夏以降の刊行が予告されている。現在刊行されているのはこの第41巻までで止まっており、ようやく追いつくことができた。2000年から刊行が開始された新全集、足かけ6年を経て完結を間近にひかえ、長かったなあと感慨を禁じえない。
さて酒の肴に何を聴こう。まずセットしたのは、最晩年の三島が書いた歌舞伎「椿説弓張月」を作者自ら朗読した「脚本読み」(ほんよみ)の一枚。この狂言は以前歌舞伎座で観たことがある。猿之助玉三郎勘九郎(現勘三郎)という顔合わせだった。内容は重厚かつ伝奇的な義太夫狂言で、古典歌舞伎に見まがうもの。こうした歌舞伎をさらりと書ける三島の才能に瞠目したのだった。
その脚本読みもまた素晴らしい。昭和44年だから当時三島は44歳。歌舞伎狂言の発声の作法を外さぬ玄人はだしの、まるで場数を踏んだ老優によるような口跡で、一人何役もこなしてゆく。
ふりかえってみれば、三島の肉声をきちんと聴いたことがあったかどうか、記憶がはなはだ怪しい。たぶんテレビでかつての三島の映像が流されたときなど、聴いたことがあるとは思うのだが、はっきり憶えていない。映像的に唯一印象にある映画「黒蜥蜴」の出演場面は、人形役だから台詞がない。
この脚本読みでは三島の地声が判然としない。そこで次に別のCDを聴くことにする。地声がわかる講演がいい。国立劇場歌舞伎俳優養成所第一期研修生に対する特別講演「悪の華」のさわりだけ聴いてみる。
歌舞伎の脚本読みでも薄々感じていたことだが、声質がアナウンサーのように明瞭、アクセントにも癖がなく、とても聞きやすい。頭脳明晰でもあるから、話の内容もきっとわかりやすいに違いない。「私」を「アタシ」に近い発音で喋っているのが意外といえば意外だった。
最後に、この「音声編」でもっとも楽しみにしていた歌「からつ風野郎」をかける。自身主演した映画(増村保造監督、1960年)の主題歌として制作されたもので、作詞が三島、作曲が深沢七郎。深沢は収録でもギター担当で参加している。小説にくらべると歌は…と酷評されているが、さてどうだろう。歌詞は次のとおり。

きのふの風 けふの風/恋の風 金の風/夢も涙もふきとばし/人でなしも 人の子さ/からつ風野郎 あすも知れぬ命
ムショの風 シャバの風/恋の風 金の風/情しらずの ワナをかけ/惚れはさせるが 惚れはせぬ/からつ風野郎 あすも知れぬ命
ハジキの風 ドスの風/恋の風 金の風/独り笑ひの 口もとを/すぎる殺気の うそ寒さ/からつ風野郎 あすも知れぬ命
(『決定版 三島由紀夫全集37』*2所収)
レトリックを尽くした三島の小説に比べて、この軽さは何事だろう。ふっと気が抜ける。石原裕次郎調の曲で、歌声も彼を意識している感じ。一番から三番それぞれの最後のフレーズにある「からつ風野郎」という詩句は、メロディに乗るのではなく、語り、台詞のように吐き捨てられる。ここがもっとも裕次郎調。きっと三島はこの台詞を言う自分の姿にナルシシズムを感じていたに違いない。
聴き終えたら、ビールの酔いも手伝って、一日のストレスもすっかり洗い流され、ほがらかな気分になった。