懐古趣味とミーハー趣味のあいだ

東京映画名所図鑑

むかしの日本映画を観ようとする動機を考えてみる。わたしの場合、川本三郎さんの著作をひとつのきっかけとして関心を持つようになったことからもわかるように、ストーリーや演じている俳優よりも、映画に映る過去の東京の情景、さりげなく演出される昔の日本人の風俗、しぐさ、生活の一齣といった点に興味があり、そこに注目する。
川本三郎『銀幕の東京』*1中公新書)・佐藤忠男『映画の中の東京』*2平凡社ライブラリー)のような書物を愛読するゆえんである。
こうした嗜好は懐古趣味と言えようが、たとえば昭和30年代にこの世に存在していたわけでもなし、東京にもまったく縁がなかったわけだから、ノスタルジーとも少し違う。記憶もないような過去の時空間を懐かしむことをノスタルジーと呼んでいいのだろうか。
たしかにむかしの日本映画を観て、ある種の懐かしさを感じないわけではない。ただその場合、広瀬正のごとく、自分がかつて生活した場所、時間をよみがえらせることで味わう具体的対象のあるノスタルジーではなく、人間誰しもが自分の子どもの頃を懐かしむような、ごく一般的なノスタルジーなのである。
とすれば、むかしの日本映画に映る東京の町並みを観て喜ぶといった心性は、懐古趣味というよりミーハー趣味に傾いていると言えるのかもしれない。事実、いまのテレビドラマを観ながら、背後に映る建物や橋などから「これはどこで撮ったのだろう」と、そのロケ地が気になることがあるし、実際そこに足を運んで悦に入ることもある。
もっとも、好きな俳優が演じた同じ場所に立ち、雰囲気を味わいたいという単純なファン心理によるのではなく、スクリーンないしブラウン管というものに映った、つまり一度客観化された空間に、みずから入り込むことに快感をおぼえるのだと思う。
だから、冨田均さんの『東京映画名所図鑑』*3平凡社)のような本は、わたしにとって座右に備えるべき内容を持ったものだった。区域ごとに、その場所が映った映画を列挙する。映画は戦前のものから最近のものまで限定されない。あげられた情報はおびただしく、これらの映画の大半を知っていればそのなかを泳ぐすべもあろうというもの、わたしの場合はただただ情報の海に溺れかかってアップアップになってしまった。
索引も完備されているから、いずれ未見の映画を観たとき、そこに登場する東京の町並みを探すのに便利な本となるに違いない。今回のところは、ロケ地へのミーハー的関心というよりも、掲載されている多くの写真から「失われた東京」を見る楽しさが優先されたという気がする。
とはいえミーハー趣味が疼かなかったかというと、そうではない。成瀬巳喜男監督の傑作「稲妻」で、三浦光子が亡夫の愛人(中北千枝子)と話し合いをしに住まいを訪れたとき、妹の高峰秀子と渡った橋が、洲崎弁天近くの新田橋であることを知った。「稲妻」のなかでも印象深いシーンである。行かねば、いや、行きたいなあと強く思う。