ビギンはbeguine

ビギン・ザ・ビギン

先日読んだ井崎博之エノケンと呼ばれた男』*1講談社文庫、→3/31条)のなかに、戦後榎本健一古川ロッパ柳家金五楼の三大喜劇スターが大合同して大当たりをとった「アチャラカ誕生」について、和田誠さんの著書『ビギン・ザ・ビギン』の一節が引用され、当時の喜劇界に与えた衝撃を論じている(同書第六章)。
和田誠さんはこの「アチャラカ誕生」を生で見たという。

「アチャラカ誕生」は、ぼくも観ている。これは本当に傑作だった。それ以前も、その後も、舞台、映画、ラジオ、テレビを全部ひっくるめて、あれほど笑わせてくれたものはなかったと思う。(『ビギン・ザ・ビギン』178頁)
ここまで書かれると「アチャラカ誕生」にただ憧れるしかないのだが、それはともかく、個人的にはこういうことが書かれてある和田さんの本に食指が動いた。ときおり面白かったなあと思い返すのが、和田さんの『銀座界隈ドキドキの日々』*2(文春文庫)である。この本については読んだ時興奮しながら感想を書いたことを懐かしく思い出す(旧読前読後2001/1/7条)。
そんな記憶が脳裏にあったので、古本屋で同じ文春文庫から出ている和田さんの『ビギン・ザ・ビギン―日本ショウビジネス楽屋口』*3を見つけたとき、消極的ながら買っておいたのだった。
消極的というのは、ここで取り上げられているレヴューやミュージカルといった「ショウビジネス」にさほどの関心もなく、疎かったからだ。本書は東宝に入社後脚本家・演出家として一貫して裏方を歩み、日劇の名プロデューサーとして戦後のショウビジネス界を牽引した山本紫朗の聞き書が中心になって構成されている。まず山本紫朗という名前を知らなかった。
彼の仕事場だった日劇、いまの有楽町マリオンの場所にかつてあったショウビジネスの拠点のことは、もちろん知らない。東京に来て8年になろうとするが、いまだにこのあたりに密集している東京宝塚劇場日生劇場・帝国劇場などの区別が怪しい。これら劇場で活躍する歌劇団、宝塚、SKD、NDT…、まったくもって混乱するばかり。
そもそも書名に採られた「ビギン・ザ・ビギン」は字面だけ見れば文法的におかしいことは承知しつつ、「begin the begin」なのかなと考えていた。ところが本書で、後者の「ビギン」は「beguine」で、西インド諸島の一つマルチニックで生まれたリズムの名称」(97頁)であることを教わった。
このタイトルからわたしはフリオ・イグレシアスの歌声が反射的に浮かんでくるのだが、果たしてこの曲と同じなのかどうかすらわからなかった。「あとがき」で同一であることがようやく判明したのである。
かくのごとく何もかもわからないことだらけだったけれど、戦後からグループサウンズ全盛期ごろあたりまで、山本を核に、彼を慕って結集する俳優、歌手、喜劇人たちによる熱気が、彼らの口をとおして生き生きと語り出されているのに接し、夢中になって読み進めた。
個人的な関心からは、やはり日劇で演じられた喜劇や「東宝歌舞伎」について、関係者の聞き書をもとに叙述した第八章・第九章・第十一章あたりが面白い。
終戦の日のエピソードも印象深い。戦争末期山本さんは「会社の疎開」のため新潟を拠点にして東北・北陸地域の興行を担当していたという。終戦当日、高岡で長谷川一夫笠置シヅ子らのショーを企画していたところ、敗戦の報に接し、長谷川らを敦賀まわりで東京に帰らせ、自身は新潟に戻るため汽車に乗った。
汽車には誰も乗ってない。ぼく一人しかいない。ある駅に着く。十分も二十分も待たされる。誰も乗ってこない。駅にも人が一人もいない。何てのかねえ、あれは。白昼夢みたいだった。(159頁)
本書のなかでもっとも心に残った一節である。
最初から読みとおし、充実した気分で「あとがき」を読み始めると、「ええっ!」と驚きの事実が明かされる。ミステリのどんでん返しではないが、それに近い叙述的な仕掛けがほどこされており、読みとおした甲斐があったと嬉しくなるのだ。カバー裏の紹介文にもこのことは書かれていないので、内緒にしておく。本書は、この驚きを味わうためにも、「あとがき」から読むべきではない。