乱歩物ミステリの隠れた秀作

名探偵乱歩氏

長男の誕生日プレゼントを買いに行くため、知人から車を借りた。東京で車を運転する機会は年に一、二度あるかないかなので、ついでに、これまで段ボール箱にためていた処分予定本を古本屋に売りに行くことにした。
そこでせっかくの機会だから、できるだけ処分する本を増やそうと、既読本を中心に整理を始めた。坪内祐三さん同様、私も本を捨てられない人間のようである。たった2箱分にしかならない。
それどころか、積ん読の山の底のほうに沈んでいた本と久しぶりに対面し、「こんな本買ったなあ」とめくってしまい、整理が二の次になってしまうのも坪内さんと同じ。今回とくに目にとまったのが、黒木曜之助さんの『名探偵乱歩氏』*1春陽文庫)である。本格的に腰を据えて読むことにする。
江戸川乱歩を登場人物にした小説は少なくない。本書のほかに、古くは斎藤栄『乱歩幻想譜』*2(徳間文庫)から、有名なところでは久世光彦『一九三四年冬―乱歩』*3新潮文庫)がある。久世さんの本は、作中に乱歩の文体を模した「梔子姫」なる架空の作品を織り込むという趣向の凝らし方で、その「梔子姫」が乱歩作品に見まがうような雰囲気を持っていることに舌を巻いたものだった。
その他手もとにある乱歩本をあげれば、黒木さんの本書と、辻真先さんの『江戸川乱歩の大推理』*4光文社文庫)がある。もっとも辻作品は江戸川乱歩自身を登場させずに、しかも物語の真の主人公は乱歩である」(西堀小波氏による「解説」)というものらしい。そうそう、小林信彦さんの「半巨人の肖像」(『回想の江戸川乱歩』所収)も忘れてはならない。
それはともかく、これだけ乱歩を登場させる小説が多いのは、探偵小説界の巨人という存在感もさることながら、『貼雑年譜』に代表される自分への興味にもとづく『探偵小説四十年』のような詳細な自伝的資料に恵まれている反面で、数度にわたる断筆とその間の放浪という、年譜の表面に出ない謎の部分が、後輩作家の想像力を刺戟するからに違いない。
事実、久世作品は、乱歩が満を持して『新青年』に連載を開始した「悪霊」を書きあぐねて身をくらませ、麻布にある「張ホテル」という謎めいたホテルに投宿していた頃をモデルにしたものである。また、黒木さんの本書は、昭和7年に二度目の断筆宣言をして放浪したその旅先が発端となっている。そればかりか、ここにも「張ホテル」が登場する。
本書の大筋は、昭和6年千駄ヶ谷で起きた「パス屋殺し」と呼ばれた架空の貸金業者殺害事件の謎を乱歩が解いてゆくというものになっている。蔵書整理中、本書をパラパラめくっているうち、瞬間瞬間にではあるが、乱歩マニア魂をくすぐる字面が目に飛び込み、読む気が起きたのである。
読んでみるとこれが期待以上に面白い。乱歩の伝記的事実や、昭和初年の「エロ・グロ・ナンセンス」と言われた時代相を歪曲することなく織り込み、そのなかに乱歩の謎の部分を巧妙に想像力で継ぎ合わせ、しかも見事な謎解きミステリになっている。
社会風俗描写がしっかりと信用のおけるものであるのは読むうえでの最低条件であり、久世作品も、本書も、何となく薄暗いこの時期の世相が行間から伝わってくる。そのうえに乱歩の伝記的事実を踏まえているから乱歩ファンにはたまらず、乱歩の仲間も絡むだけでなく、当時の有名人まで物語の主要人物として登場するあたり、エンタテインメントとしての面白さも抜群。
先に「見事な謎解きミステリ」と書いたが、これは嘘偽りないもので、意外な犯人、どんでん返しもあり、またここでは言えない仕掛けもほどこされ、それらの謎がこの時期特有の社会風潮と密接に関係するからたまらない。この作品が出たとき(1987年)、話題にならなかったのだろうか。
なるほど著者の黒木さんは元新聞記者だそうで、茨城新聞論説委員を経て作家に転身、作品が江戸川乱歩賞候補になるといった経歴を持っている。新聞記者出身の推理作家といえば、佐野洋さんや横山秀夫さんを思い浮かべる。筆が立つうえに、事実に対する向き合い方が疎かにならない。
ちなみに黒木さんのもうひとつの筆名は筑波昭。そう、横溝正史八つ墓村』のモデルとなった事件を取り上げたノンフィクション『惨殺―昭和十三年津山三十人殺しの真相』*5旺文社文庫、現在は『津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇』*6と改題され新潮OH!文庫に入っている)の、あの著者である。

*1:ISBN:4394334160

*2:1974年。未読。持っているはずだが見つからず。

*3:ISBN:4101456216

*4:ISBN:433471952X

*5:ISBN:4010643455

*6:ISBN:4102901280