戦前東京の細部を描くSF

エロス

司馬遼太郎が考えたこと5』*1新潮文庫)を購い、同書に収録されている直木賞選評を拾い読みしているうち、読みたくなってきた本があった。ときおり手にとって読む機会をうかがっていたものだったから、いよいよ読む機が到来したかと思っていたのである。
それから数日経ったある日、帰宅後、妻からのその日一日にあったことの報告(といっても子どもの幼稚園の話だが)を右から左に聞き流しながら、ソファに寝そべり買ってきたばかりの『東京人』5月号(特集は「東京の地名」)をめくっていた。ある箇所を目にした瞬間「おおっ」と驚きの声をあげてしまい、彼女から、自分の言ったことに対する反応かと勘違いされてしまう。
それというのも、川本三郎さんの連載「ミステリーと東京」で、広瀬正の『マイナス・ゼロ』が取り上げられていたからである。川本さんは「亡き広瀬正は、「ノスタルジー」の棚があればまず置かれるべき随一の作家だろう」と書き、『マイナス・ゼロ』に描かれた昭和初期の東京の町の姿を紹介している。
実は司馬遼太郎直木賞選評に動かされ、読もうと思っていたのは、同じ広瀬正『エロス』だったのだ。これが『マイナス・ゼロ』であれば、さらなる偶然の一致に仰天していたに違いない。
以前古書ほうろうのサイトで、たしかこの小説が千駄木界隈を舞台のひとつとしていることが紹介されていて、あらためて関心を抱いたはずだ。「あらためて」というのは、仙台にいた頃、集英社文庫に入っている「広瀬正小説全集」6冊すべて持っていたが、未読のまま手放していたからだ。これをきっかけに「広瀬正小説全集」を買い戻しはじめ、いま書棚に6冊が横積みされ収められてある。
さて『エロス』は、「もしあのとき○○だったら…」という別の世界を想定する、いわゆるパラレルワールド物のSF長篇である。大物女性歌手(淡谷のり子がモデルか)が主人公で、彼女が歌の道に進むきっかけとなった事件にもし遭遇しなかったら、という仮定を出発点に、物語は「現在」と「過去」「もう一つの過去」が交互に進行する。
岩手の一少女が東京は駒込曙町に住んでいた叔母夫婦の家に下宿するため上京する、というのが「正しい過去」の始まりとなる。彼女は、壊れたラジオを修理に来た知り合いの青年に一目惚れしてしまい、…という筋で、若い男女の「ありえたかもしれない現在まで」を並行的に描いてゆく。
叔母夫婦宅のある駒込曙町は現在の本駒込二丁目付近。物語はこの地域の細かな空間的特徴を描き込んでいるというほどではなく、その意味での期待は外れたことになるのだが、そんなことを忘れさせるような、戦前の東京、戦前の人びとの暮らしのディテールがこれでもかと細かく書き込まれていることに圧倒され、それを愉しむ。
戦中生活の細部については、井上ひさしさんの『東京セブンローズ』(文春文庫)がある。ディテール再現へのこだわりという点で『エロス』はこれに匹敵し、また、広瀬は京橋生まれ京橋育ちということで、『東京セブンローズ』にない「ノスタルジー」という味つけが加わる。
そういったあたりに惹かれたから、パラレルワールド物、SF小説としての出来不出来という点に注意せず読み進めていたけれども、最後の最後に仕掛けられた見事などんでん返しに、「なるほど、うまい!」と唸り、ある種の爽快さを感じた。この結末を「後味がよい」とすると語弊があるが、何とも気分良く本を閉じることができたのであった*2
ちなみに、『マイナス・ゼロ』は広瀬正の初めての直木賞候補作(第64回、1970年)で、司馬遼太郎「それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さには驚いた」と評する。このときは豊田穣長良川」が受賞した。次の第65回には『ツィス』が候補作となり、「変に魅かれるものがあった」と評されながら、またもや落選(このときは該当作なし)。
さらにつづく第66回の候補作が『エロス』だった。このとき司馬ははっきりと『エロス』を推し、この作品を次のように読み解く。

深読みかもしれないが、愛というこの人間現象に奇怪な襲撃力をもつ力を、作者は化学的物質としてそれを抽出し、合成し、それをこの小説に登場する数人の人間の過去に対し、実験的に添加した場合、「過去」がどのように化学変化をおこすかということをSF風に考えてみた文学であるように思える。(「二つの作品(第66回直木三十五賞選評)」)
こんなふうに司馬遼太郎に評されたら、読まずにいられなくなるではないか*3。ちなみにこのときの有力対抗馬には田中小実昌さんの『自動巻時計の一日』があり、結局該当作なしに終わった*4
さあ、この余韻が消えないうち『マイナス・ゼロ』を読まねば。

*1:ISBN:4101152470

*2:現在本書は絶版のようだ。「小説全集」の一部がまだ入手可能なのにこの作品が絶版なのは、あるいはこの結末が原因なのだろうか。だとしたら残念きわまりない。

*3:集英社文庫版『ツィス』の解説が司馬である。司馬遼太郎広瀬正びいきは、私が知らないだけでたぶん有名な話なのだろう。

*4:以上の直木賞に関するデータは、豊田健次『それぞれの芥川賞 直木賞』(文春新書、ISBN:4166603655)に拠った。