巨人ファンである理由

野球の国

奥田英朗さんの文庫新刊『野球の国』*1光文社文庫)を読み終えた。奥田さんの本を読んだのは初めてだが、もっと前に読むチャンスがなかったわけではない。
昨年『空中ブランコ』が直木賞を受賞したとき、さまざまなメディアで紹介されるその内容に惹かれ、読みたいと思った。新刊書店に走れば、直木賞受賞の帯がかけられた同書が山積みになっているにもかかわらず、根が貧乏性の私は、読んだ人がすぐ売り払うだろうと古本で探すことにしたのである。
そこで行ってみたのが隣町のマンガ主体の新古本屋。この手の新刊本がけっこう早く入ると常々目をつけていたのだ。望みもむなしく『空中ブランコ』は並んでいなかったけれども、代わりに本書『野球の国』の元版を見つけ、めくってみるとプロ野球のキャンプなどを訪れた紀行エッセイということもあり、食指をそそられた。
もっともこれも買わなかった。このように文庫化されることを期待していたわけではないのだが、たまたまこのときは売値と読みたいという気持ちが運悪く折り合わなかったのだった。
だから今回文庫に入ったので喜び勇んで購入したのである。一読、意表を突かれた。前記第一印象「プロ野球のキャンプなどを訪れた紀行エッセイ」はほんの一面に過ぎず、キャンプはおろか公式戦や二軍の試合、果ては初の海外公式戦を観に台湾へ出かけたり、シーズンオフに開催される「マスターズリーグ」までを観戦するといった紀行だったからだ。キャンプにはじまりマスターズリーグに終わる。一冊の本がプロ野球のちょうど一年間のスケジュールにそっくり対応している*2
そのうえ、たんに野球観戦を目的に地方を訪れた紀行エッセイという枠組みを超えており、ただ意表を突かれただけでなく、そこがめっぽう面白い。
プロットを組み立てられずディテールにこだわる職業作家である自分に疑問を抱き悩んだり、毎日の執筆活動のため固く凝った肩や背筋の重さに疲れ果て、都会暮らしに倦み地方住まいを真剣に考える。そんな自分と向き合いつつ、精神の解放のため地方の野球場に足を向ける。ヤジが大好きなのに一人でいるとヤジれず、連れがあるとき思い切り周囲をウケさせるようなヤジを飛ばすという小心者ぶりも微笑ましい。
地方にいけばその町でもっとも豪華なホテルのツインルームに一人で泊まり、ガイドブックに載った地元の名店を食べ歩き、時間があまったら映画館を探して飛び込む。疲労を感じると部屋にマッサージを呼び凝りをほぐしてもらう。野球を観ることと町を歩くことを通じその地域の文化的特質を鋭く見抜き、独特のユーモアあふれる表現でズバリと言い放つ。野球・紀行エッセイという枠を超えて面白いと感じたゆえんである。
野球観戦記という側面にしぼるだけでも、名言の宝庫である。野球を生で観ることの興奮は何物にも代えがたい。以前私も書いたことがあるが(→2003/8/23条)、本書を読んであらためて実感した。

北谷球場は内野に目障りな金網がないので、異様に近く感じる。(…)したがって、革のグラブの捕球音が実に心地よく響いてくる。パーン。パーン。閑散としたスタンドにこだまする。なんだか懐かしい。神宮球場や東京ドームではもう聞けなくなった野球の音だ。(17-18頁)
昔流行ったレイドバックという言葉を思い出す。「ゆったり」とか「らくに」とか、そういう意味だ。わたしが野球を好きなのは、レイドバックしているからだ。荒々しい一面はあるものの、根は牧歌的なのだ。ビールを飲みながら選手をヤジれる。そんな競技は野球しかない。(166頁)
マスコミが報じるプロ野球など、所詮は絵空事なのだ。ジャーナリズムはペナントレースを語るが、野球そのものは描写しない。神はディテールに宿るというのに。
来てよかった。野球場に来て後悔したことは一度としてない。(209-10頁)
最初の引用文を読んで、突然脳裏によみがえった一シーンがある。いまや楽天イーグルスの本拠地になったフルキャストスタジアムがまだ県営宮城球場と呼ばれていた頃、2年に一度の「みちのくシリーズ」で仙台にやって来た巨人戦を観に行ったときの思い出。
試合前の練習で、巨人選手のキャッチボールを見ていたら、巨人の有田修三捕手が投げる球が異様に伸びて相手のグラブに収まり、驚いたのだ。キャッチャーなのだから伸びて当たり前なのだが、有田といえば当時はすでにロートル選手で、同時期に在籍していた中尾と比べても「弱肩」と言われていた。その「弱肩」の球が伸びる! やっぱりプロ野球選手はすごい! これは実際に見ないとわからない。
ところで奥田さんは本書のなかで、こういう問いかけをする。
わたしは岐阜生まれなので自然と中日ファンになったが、地元チームのない人たちは、どうやって各チームのファンになるのだろう。よく聞くのは、自我が芽生えたころ、覇権主義的な巨人が嫌いになり、たまたまその年に巨人を倒して優勝したチームを好きになるというケースだ。(84頁)
私は巨人ファンだ。昔は「熱狂的」と付けてもおかしくなかったが、いまやそれほどでもない。でも、なぜ天の邪鬼な自分が巨人ファンになったのか、自分でもわからなくて、とりあえず他人には「東北の田舎で巨人戦中継しかなかったから」とよく言われる説明でお茶を濁していたのである。
ところが上の一節を読んで「なるほどそうか」と膝を打った。私がプロ野球をはっきり意識したのは、1975年。そう、長嶋茂雄さんが引退してすぐ監督に就任した一年目、屈辱の最下位になった年なのだ。だから私は長嶋さんの現役姿の記憶がまったくない。
それはともかく、天の邪鬼が巨人ファンになったというのは、このときのみじめな最下位が深層にあったのに違いない。判官贔屓に近い心理か。巨人がこの年V9時代のような圧倒的強さでペナントレースを制していれば、巨人ファンにはなっていなかったかもしれぬ。
この年は「赤ヘルブーム」と言われ、広島カープが初優勝を果たしたのにファンにならなかったのは、このときの広島が「巨人を倒して優勝した」というほどではなかったからなのだろう。最下位なのだから、倒されるといったイメージではない。
巨人のV10を阻止し1974年に中日が優勝しているが、私より数歳上の人々に中日ファンが多いことや、井上章一さんが阪神ファンになった(上記2003/8/23条参照)のはこの「奥田理論」で納得がいく。
本書は内容が面白いだけでなく、少なくとも私にとって、記憶の奥底に深く沈んだままで、もしかしたら一生浮上することはなかったかもしれない「有田の伸びる球」という場面を思い出させ、自分が巨人ファンになった理由を解き明かしてくれたという意味で、とても意義のある本だった。
本書のなかで職業作家であることに悩み抜いていた奥田さんが、その後見事直木賞を獲ったことを素直に喜びたい。さて、今年こそ野球を生で観にでかけるぞ。

*1:ISBN:4334738419

*2:目次は、沖縄編・四国編・台湾編・東北編・広島編・九州編の6編。