売文は賭けだ

売文生活

わたしの属する職業的社会でも、原稿料は無縁というわけではない。ただし、一般的な学術雑誌(学会誌)に論文を書いても、原稿料をもらうことはまずない。例外は、その雑誌が学会の「自費出版」ではなく、出版社を通して発行されている場合で、こういう雑誌に書けば原稿料をいただける。
大学院生や駈け出しの頃であれば(今もそうだが)、投稿論文を採用してくれるだけでもありがたいのに、おまけに原稿料までくれるのだから大喜びなのである。だから一枚いくらなどという単価にこだわるはずがない。相場にくらべて高いか安いかすら判断がつかない。たぶん、ないよりはましという程度なのだろう。
同業者の方が某有名週刊誌に寄稿すると、一回ウン十万(だったか十ウン万だったか)の原稿料がもらえるという話を小耳に挟み、目玉が飛び出るほど驚き、かつ心の底から羨んだ。連載だとすればそれだけで本業の給料を超えてしまうではないか。さすがに売れる週刊誌の原稿料は違う。
いま、軽々しく「相場にくらべて」とか、「ないよりはましという程度」とか、「売れる週刊誌の原稿料は違う」などと書いたけれど、ではおまえは相場を知っているのか、高い安いという判断の基準はどこにあるのかと訊ねられると、返答に窮してしまう。感覚的としか答えることができないからだ。
だから、日垣隆さんの新著『売文生活』*1ちくま新書)を大変興味深く読んだ。日垣さんは原稿依頼があると、まず「いくらですか?」と必ず問うて編集者と業界の常識を動揺させてきたという。その日垣さんによる、原稿料事情の歴史的検証を踏まえた斬新な切り口の作家論であり、日本文学史である。
検証作業がいい加減ではなく、きちんとデータを提示して客観的に分析してゆくというきわめて堅実な手法をとるために、実に説得力がある。こうした検証部分は退屈におちいる可能性が高いが、本書ではそうならない。
第三章「標準としての夏目漱石」・第四章「トップランナーたちの憂鬱」は、夏目漱石梶山季之筒井康隆らが実際に書いている資料に依拠し、漱石の交渉上手さや梶山季之の書きまくりの現実、筒井康隆を通して売れっ子作家の懐事情などを明らかにするという、本書でも極め付きに実証的な部分なのだが、取り上げられている作家の人間的魅力に、日垣さんのときおり毒が混じるユニークな文体が加わり、すこぶる面白い。
全体的な論旨もクリアでわかりやすい。本書は「ビジネスモデルとしての売文生活」(229頁)が考察の目的とされているが、結局プロの物書きに求められるのは、「多かれ少なかれ賭博者と経営者の才能」(220頁)が必要だという。

歴史を振り返ってみれば近代文学は、それまでの道楽から転じて、先物買いに近い文章の売買(投機)として成立し、投機として生きながらえてきた、と言っていいのです。(220頁)
売文は賭けなのだ。投機で一発当てながら経営者としての才能に乏しかったため、先細りで落ちぶれた作家の例もきちんとフォローされている。それが立花隆さんで、その落魄ぶりは哀れ涙を誘わずにはおかない。
売文は投機であるという指摘の背景として、書き手に原稿料が入る仕組みに対する明晰な理解があるから、論理に揺るぎがない。日垣さんは、作家の収入には足し算の世界と掛け算の世界二つがあるという。足し算とは原稿料。書けば書くほど増える。いっぽう掛け算は印税。一回の労力でいくらにでもなる可能性を秘めている。
足し算の世界で収入を増やそうとしてもおのずと限界がある。作家として収入を増やすためには、ゆえに掛け算の世界で賭けに出なければならないのである。
わたしの所属する職業的社会だけの話でもないだろうが、A先生が「掛け算の世界」で一発当てたお金で新車を買ったとか、B先生は家まで建ててしまったといったうわさ話がまことしやかに流れることがある。陰で羨望(場合によっては嫉妬も)を込めて、その本を出した版元の名前を付けて車を「○○社号」と呼んだり、家を「○○社御殿」と呼んだりする。
言われてみると「○○社号」にせよ「○○社御殿」にせよ、わたしたちは、日垣さんのいわゆる投機性の強い「掛け算の世界」で生まれた果実にことさら注目してしまうらしいことがわかる。一生に一度でいいから、「○○社号」「○○社御殿」と人から呼ばれるような買物ができる身分になりたいものだ。