第64 まぼろしの根津・弥生

根津神社

朝の通勤で時間(と気持ち)に余裕があれば、地下鉄をひとつ手前の千駄木で降り、根津神社の境内を通って職場に歩いてゆく。先日も思い立って千駄木で降り、いつものとおり根津神社に入った。
根津神社を抜けると、たいていS字坂をのぼって本郷台地上に出るルートをとる。S字坂上の崖の突端に、かつて帝大生内田栄造(百間)が住んだ下宿の建物が残っていたが(→2004/8/18条参照)、すでに取り壊されたことは書いた。いま新しい住宅が建築中である。
百間遺跡を間近に見る機会が永遠に失われたということも影響してか、たまに別の道を歩いてみることにした。S字坂は鳥居を抜けて右に曲がる。今回は左に曲がり、久しぶりに「おばけ階段」をのぼってみようと思ったのだ。
おばけ階段にさしかかる手前には、明治の頃根津界隈が遊廓だったという風情を想像させる古びた旅館がある。上海楼という名前である。もとよりこの建物自体が遊廓の名残というわけではないようだが、艶っぽい外壁の色が遊廓を連想させないではおかないのだった。ところがいま、この上海楼までが取り壊されつつあるのである。
今年の正月家族で根津神社に初詣に来たさいこの光景を目の当たりにして衝撃を受けた。その頃はまだ外側部分が残っていたけれども、いまや建物はさっぱり消えてなくなってしまった。
この上海楼にはあの種村季弘さんも泊まったことがあるそうだ。

根津神社(権現)の近くに上海楼という古い旅館がある。前夜ここに一泊したのにはわけがある。某出版社にUさんという顔みしりの女性編集者がいる。三味線の名取で、とりわけ浪曲の伴奏では玄人はだし。この人は東京のどこかに歴とした住まいがあるのに、週に一回根津のお師匠さんに稽古をつけてもらい、後は根津千駄木のどこかで泥酔して上海楼にへたりこむ。その話を聞いて、話のなかに出てくる上海楼に一度ぜひ泊まりたいと思ったのである。往年は東京で一、二を争う中華料理の宴会場で、文士の出入りもしきりだったそうだ。
以上の文章は種村季弘根津権現裏と谷中」(朝日新聞社『江戸東京《奇想》徘徊記』*1、124頁。)による。「往年は東京で一、二を争う中華料理の宴会場で、文士の出入りもしきり」などという話を読むと、根津の歴史を語るうえでの名所がまたひとつ消えたことを思い知らされ、心が沈んでくる。
さて、上海楼「跡」を左に見て、おばけ階段がある路地奥へと向かう。このあたりは路地の突き当たりで人気もなく、ほとんど他人に行きあたったことがない。仕事帰りに暗くなったときには通るのが憚られるほどの淋しい場所である。とはいえ「おばけ階段」は根津・弥生の名所のひとつだろう。階段を上るときと下りるとき、それぞれ段数が違うという不思議な階段なのである。
行ってみるとこれまた驚いた。おばけ階段のわきにマンションが新築されたばかりで、その一環だろう、おばけ階段と平行するように、新しい階段が作られていたからだ。もっともこの階段はいまのところ赤瀬川原平さんのいわゆる「トマソン」で、新階段は隣のおばけ階段の途中までしかなく、最上段から上は壁に阻まれている。いずれは隣のおばけ階段の代わりを果たすものとして作られているのだろうか。これまた不安である。
おばけ階段を上りきった右手に「弥生町社宅」と名づけられた、どこの会社の社宅かもわからない二階建てのアパートがあったのだが、これも取り壊され、更地になっていた。ここに住んだら、根津神社の方向(北・東)への眺めがいいだろうなあ、住む人は幸運だなあと、通るたびに羨ましく思っていた。
路地を抜けサトウハチロー旧邸跡に出る手前に、東大の古びた木造学生寮があったが、これまた取り壊され、更地になっていた。「つはものどもが夢の跡」ではないが、もともと庭にあったとおぼしき木々だけ取り残され、建物があったはずの平坦な場所には、芝のように雑草が一面にはびこり、かつてここに建物があったことすら思い出せないような雰囲気に様変わりしている。
いかにも古くさい、「東京帝大」という雰囲気を残すような学生寮だっただけに、これまたなくなったのが惜しまれる。もっとも私は、この学生寮を見るたび、「トイレが臭そうだなあ」などと失礼なことしか考えなかったけれど。
と、歩くたび、あったはずの建物が目の前から消えた事実をつきつけられ、呆然とするほかなかった。私は東京に来てたかだか7年にすぎない。同潤会アパートもそうだが、移り住んだ当初はまだまだ東京は“歩いて愉しい空間”“歩いて愉しい道”“歩いて愉しい建物”が多くあったものだと、7年前に思いを馳せるのであった。