鈍感なマジョリティ

偏食的生き方のすすめ

新潮文庫の今月の新刊が平積みされているなかに、「魚は飛んではいけないので、トビウオは食べられない」という帯の惹句がある一冊が目に止まった。どういうことだろうと手に取ったのが、中島義道さんの『偏食的生き方のすすめ』*1という本である。運の尽きか、はたまた運命的出会いか。
中を見てみるとなにやら日録スタイルで書かれており、まずそれに惹かれた。一歩戻ってタイトルの「偏食的生き方」という言葉も気になる。さっそく買って読んだところ、これまた強烈な吸引力があって、しばらく中島さんの生き方に引きずられることになるかもしれない。
書名の「偏食」という言葉に対し、私は最初言葉どおりの意味ではなく、「的生き方」と続くことから、生き方に対するアナロジーとして使われているのだろう、偏向的な、世間の常識から外れたスタイルの生き方を貫くという意味なのだろうと漠然と考えた。
ところが実際は違った。言葉どおりの意味での偏食について、著者の実例が示される。ただし偏食は言葉どおりの意味にとどまるものでもない。食に関する「偏食」(くどい言い方だが、ひとまずこう書いておく)は、そのまま生き方に関する「偏食」へとつながっている。「偏食」は人間の根本に迫る問題なのだ。
中島さんは「偏食的まえがき」にて、偏食家を「本来的偏食家」と「非本来的偏食家」に二分し、みずからは前者に属すると定める。後者は、宗教的理由によるもの、アレルギー性のもの、菜食主義者などが分類される。よくあるパターンの偏食家である。
これに対し「本来的偏食家」を、「宗教教義上の理由、ジンマシンなど身体的な理由がいっさいなくて、特定の食物を、はげしく、(非偏食家から見れば)理不尽に、しかも(これが最も重要な要素であるが)絶妙な区分けをして嫌う者のこと」と定義する。つづいて中島さんご自身の「絶妙な区分け」による偏食の実例が示されている。

鶏の卵は食べられるが鶉の卵は食べられず、いや鶏の卵でも卵の「原型」が維持されているようなゆで卵は駄目で、それが攪乱された玉子焼きは好きであり、ビーフカレーはいいが、牛丼は駄目で、餃子はいいがトンカツは駄目で、キムチは食べたことがなく、食べようとも思わず、白菜漬けは大好きであるような……偏食家である。(7頁)
これに対し世の中のマジョリティたる非偏食家たちは(私も含め)、「本来的偏食家」の心の作用を理解しようとない。不感症になっている。中島さんのような偏食家は、食だけでなく、スピーカー放送をはじめとする騒音を嫌う「音の偏食」、明るいのに照明がこうこうと照っていることに怒りをおぼえる「照明の偏食」でもある。
かくして偏食とは観念の問題であることがわかる。「さまざまな嫌な糸を選り分けて残されたわずかな空き地に残るものだけを食べる」から、非常に鋭くて繊細な観念を働かせ、嫌いなものを排除する。
アジはいかにも魚的なプロポーションであるから食べられるが、「開き」は複雑な気持ちになる。開いていることが残酷であるという感じが強くなると(そう自己催眠をかけだすと)、箸が進まなくなる。(108頁)
開いたのであれ何であれ無関係にむしゃむしゃとアジを食べることができるマジョリティは、「開いていることが残酷であるという感じ」を感じない。これと同じで、駅の構内放送のうるささ、昼間からついている照明に対しても、大半の日本人は気にしない。いかに自分がそうした環境に鈍感であったのか、本書に即していえば典型的非偏食家であったのか、身に沁みてわかった。
解説の中野翠さんが、マジョリティが世の中の「醜い光景」には「まっ、いいか」と心の蓋をしてしまうという点を指摘していたが、たとえば駅の放送などについては、私の場合読書に集中することで心の蓋をしようと努力しているのだということに気づいた。
中島さんは偏食家だからそうはゆかない。うるさければ「責任者を呼べ!」と現場の人間に抗議しないではいられない。店頭のスピーカーからエンドレスに騒音が流されていると、スピーカーの線を引っこ抜いてトラブルを惹き起こす。そのさい、自著『うるさい日本の私』と都の条例、環境省配布の騒音に関するパンフレットを相手に手渡し、自分の考え方を論理的に説明し、相手に納得してもらうため力を尽くす。
中島さんはこういうときのために、いつも関係資料や自著を鞄にしのばせているのだろうなと思うと何だか笑いがこみあげてくる。カバー表折り返しの著者紹介に添えられている近影を時々うかがい見ながら読んだ。いかにもひと癖ありそうな面構えの人である。
中島さんはマイノリティの偏食家を自認し、本書で報告される種々のトラブルを見ても、「変わった人だなあ」と思わずにはおれない。けれども、ことが出版に関係する出版社・編集者とのトラブル(これが実に多い)になると、中島さんの言い分が正論であると思わざるをえない。かくも出版社の世界とは非常識がまかりとおるものなのだろうか。
ちなみに私は牛乳はまったく駄目だが、チーズ・バター・生クリームといった乳製品は大好きである。偏食の一種かと思っていたけれど、そうではなさそうだ。たんに牛乳は味が嫌いなだけなので、観念とは別次元の、きわめて低レベルな嗜好の好き嫌いということになるのだった。