断簡零墨趣味

司馬遼太郎が考えたこと1

「断簡零墨」という言葉がある。『広辞苑』(第四版)をひいてみると、あいにく「断簡」という単語しか採られておらず、「きれぎれになった書きもの」という語釈のあとに「―零墨」という成語があることが示されているのみだった。
この言葉は、たとえば小説家の全集の宣伝文句などでよく使われる。「断簡零墨まで集めて編集」というように。つまりは、世に知られた小説やエッセイにとどまらず、推薦文や近況報告といった短文、さらには書簡、未発表原稿のたぐいにいたる未活字化のテキストまで、その作家の手によって書かれたものは細大漏らさず…ということである。
そうした方針で編まれた全集として、『漱石全集』の右に出るものはないだろう。書簡はもとより、講義ノート、メモ、日記、さらには蔵書の書き込みにいたるまで、まさに断簡零墨を余さず収めている。漱石作品が好きなこともあるけれど、私が『漱石全集』を購入したのはこのような“断簡零墨趣味”によるところも大きいと言わなければならない。
もっとも、購入したらそれら断簡零墨を読み込むのかといえばそうではない。手に入れ座右にあれば、それでいちおう満足なのである。作品はおろか断簡零墨まで読み込むのは、「狂」がつくほどの熱心なファンか、研究者ぐらいしかいないのではあるまいか。
18年前に出た講談社の『江戸川乱歩推理文庫』も、当初日記や書簡などが収録されることが告知されていて、断簡零墨愛好家の私は狂喜したものだった。ところがふたを開けてみると日記などはまったく収録されず、書簡もかつて何らかのかたちで活字化されたようなものばかり。単行本未収録だったエッセイ・評論のたぐいが渉猟され数冊にまとめられたことと、デビュー前の手製本『奇譚』の影印収録が目新しかった程度だろうか*1
その後新保博久さんや山前譲さんらのご努力で乱歩周辺の資料が続々と発見され、たとえば最近では小酒井不木との往復書簡集が翻刻刊行されたりしている。日記は存命中に焼却されたということだが、いつの日か、これら書簡や蔵書の書き込みなど断簡零墨まですべてを収めた決定版の乱歩全集が出ることを夢見ている。
決定版の全集と言えば、もうすぐめでたく全巻の配本が終わる新潮社の『決定版三島由紀夫全集』がある。前の版と異なるのは、書簡の巻があること。第38巻がそれに当たる。他の巻よりぶ厚い1000頁超の一冊のなかに、141人に宛てた806通の書簡が収録されている。漱石の3巻2500通には及ばぬものの、谷崎の書簡数に匹敵する。
もうひとつ注目なのは講演や歌など「音声」が収録されたCDの巻(第41巻)があること。これまでの小説家の全集に見られない画期的編集で話題になった。それをやるなら、「からっ風野郎」「人斬り」「憂国」「黒蜥蜴」など出演映画を収録したDVDも欲しかった。書簡・音声の巻が入ったことで、決定版三島全集も「断簡零」くらいまでのレベルに達しただろうか。
ところで、前月から新潮文庫にて、司馬遼太郎のエッセイ集成司馬遼太郎が考えたこと』全15巻の刊行が始まった。私は司馬遼太郎の小説をほとんど読んだことがなく、刊行当初もさほど興味を誘われなかった。しかし新刊書店でふと手に取りぱらぱらとめくって見たところ、“断簡零墨趣味”をそそられる編集だったので、購入を決意した。まだ今月で3冊出たばかり。今後月1冊ずつ刊行されるということだから、毎月定期的に買っていけば、懐を痛めるという感覚も薄らぐだろう。
発表されたエッセイすべてを漏らさず収めているのかまではわからないけれども、断簡零墨趣味をそそられたのは、小説の連載予告・作者のことばだとか、同人誌の文章、マイナー雑誌の消息記事などの短い文章も収められ、しかも短いものは版組(版面の体裁)も違って示されているような点だった。「作品譜」と題された書誌も詳細で、初出一覧好きとしてもこたえられない。
他の例に漏れず、こうして手に入れた『司馬遼太郎が考えたこと』にひととおり目を通すということにはならず、拾い読みする程度になるだろうが、これまで近づこうともしなかった国民的大作家の作品世界に触れる入り口にはなるかもしれない。

*1:むろん特別補巻として部分的に影印刊行された『貼雑年譜』も忘れてはならない。