山藤挿絵本および夕刊フジ連載随筆研究序説

とりあえず!?

先日「夕刊フジ」連載に山藤章二さんが挿絵を添えたエッセイ集一覧をまとめ、「山藤章二強化年間」を宣言した(→1/9条)。その時点で掲げた本すべてを入手していなかったため、「いま、古本屋をまわるときの目的がひとつできて、とても浮き浮き気分でいる」と書いた。
町歩きでたまたま目にした古本屋に何気なく飛び込んで棚を眺め、思わぬ収穫を得るというのも楽しみ方のひとつである。また、欲しい本を念頭において、ピンポイントで古本屋を訪ね歩くというのも、古本屋めぐりの醍醐味のひとつだろう。
たとえ何度もかよって見飽きるほど棚を眺めた古本屋があったとしても、一人好きな作家、一冊集めたい本ができると、その棚は一変する。「探し甲斐」が生じ、棚を見る眼が変わってしまうのである。古本を買い、読み、そこからさらに新たな世界が広がる。その都度古本屋の棚は自分の目に新しく映る。ことほどさように古本屋めぐりの愉しみは尽きることがない。
だから山藤挿絵本というのは、私にとって久しぶりの大きな「探し甲斐」のあるシリーズ出現といった感じで、気合いが入った。だが、未入手の本のなかに、井上ひさしさんや藤本義一さん、村松友視さんなどの「読みたい」と思わせる本が入っていたのが暴走の原因になってしまったようだ。暴走、そう、あのあとネット古書店などを検索し、十日も経たないうちにほとんど集めきってしまったのである。
まずはいまいちど山藤挿絵本リストを掲げたい。下記のうち、現在注文中の都筑道夫さんの『目と耳と舌の冒険』を除き、すべて揃ってしまった。

先日時点で未入手だった本のうち、真っ先に探したのは梶山季之さんの本。最も新しい横澤彪さんとこの本が文庫になっていない*1。梶山さんの作品は、小説ですら品切が多くなっている現在、単行本のエッセイ集となれば、入手が難しいのではないか。そんな危惧を抱いたのだ。
幸い1冊だけ見つかったのですぐ注文、落手した。嬉しいオマケとなったのは、カバー裏見返しに山口瞳さんによる推薦文が入っていたこと。「山口瞳の会」の中野朗さんにご報告したところ、新発見の文章ということで、思わぬ副産物だった。
肝心の山藤さんの挿絵であるが、連載時には毎回付されていたとおぼしい挿絵は、一部しか収録されていなかった。挿絵の観点からは不完全な本である。絵も、山口本以降の著者の似顔絵を入れたスタイルとは異なり、「ブラック・アングル」のキャラクターである髭づらのブラック氏(?)が登場するもので、著者と山藤さんの間での応酬もなく、山藤挿絵本のスタイルとしては未熟である。しかもイラストレーターのクレジットが「中藤章二」と誤植される始末。夕刊フジ連載における山藤さんの立場は、大きいものではなかったと見える。
梶山本入手に勢いづき、井上・藤本・青木・つか・村松各氏のエッセイ集もネットを介して入手してしまった。送料より本の値段が安いものもあり、また送料を合わせても数百円で入手できてしまうのだから、世の中便利になったものだとしみじみ思う。むろんそのいっぽうで、「自分の足で探し集めることこそ古本道の本領なのだ」というかたくなな自分の分身もいて、このところ心のなかで「二人の自分」がせめぎ合っていた。
佐藤愛子さんの本は自宅近くの新古本屋で見つけた。これは元版が毎日新聞社で、エッセイの本数は50本前後だから、夕刊フジではない。毎日系の新聞か雑誌に連載されたものなのだろう。毎回山藤さんの挿絵が付いており、スタイルは夕刊フジ連載と似ている。
さて残るは横澤さんの本だ。前述のとおり文庫になっていない。これもネットで検索すると数点出品されていたから、やろうと思えばボタン一発で入手できるのである。でもここで「もう一人の自分」が踏みとどまった。あえてネットに頼らず、古本屋で探してみようと踏みとどまったのである。
ところが運命のいたずらか、「古本の神様」がまたも光臨したのか。先日の昼休み、食事のあとぶらぶらと散歩がてら本郷通りの古本屋の店頭本だけ流し見ていたら、発見してしまったのだ。横澤さんの本を。ほとんど買うことのなかった宗文館書店の店頭ブック・トラックのなかに、『とりあえず!?』という書名を見たときには興奮した。
たぶんこの本はずっとブック・トラックのなかにあったのだと思う。これまではまったく意に介さなかった。ところがこのところの山藤宣言で、「山藤章二」という名前が強く頭に刻まれたせいで、棚を見る眼が一変したわけである。帯付、400円。
ネットに頼って集めたものもあるとはいえ、最後に残した一冊がこんなにあっさりと見つかっていいものか。しかも身近で。もとより横澤さん以後にも、夕刊フジに山藤さんの挿絵付き連載があったかもしれず、これらは追々調べてみなければならない。
さらに、夕刊フジには山藤さんが挿絵を担当していない連載エッセイもあったわけで、山藤さんの挿絵がないという大きなマイナスはあれど、一回文庫本三ページ程度の千変万化のエッセイ集という意味では、きっと私好みに違いないのである。これをきちんと調べようとするのなら、図書館などで過去の夕刊フジを調べるとか、縮刷版を調べるしかないだろう。しかし夕刊フジには縮刷版があるのだろうか。ないような気がする。
そんなこんなで夕刊フジ連載エッセイ集を毎日のように手に取っていたせいか、夕刊フジに連載していそうな作家、夕刊フジに連載されていたのではないかとおぼしきエッセイ集に対する感覚が敏感になったような気がする。一回3頁、100回前後ということで、文庫本のエッセイ集としてはけっこう厚めになるので、目星がつきやすいこともある。
ということで、さっそく、山藤挿絵本以外の夕刊フジ連載エッセイ集が手もとに2冊集まった。これもひとまずリスト化しておく。

遠藤さんの本は、先日山藤挿絵本を求めにたなべ書店西大島店を訪れたさい、同店の店頭本で50円で入手していた。カバーイラストは山藤さんによるが、文章中に挿絵はない。連載中の挿絵担当も不明。山藤さんの例の文章で言及がないから、少なくとも挿絵は山藤さんではなかったのだろう。帰宅後偶然夕刊フジ連載とわかった。原題「酔生夢死」で、1977年9月9日から12月31日まで連載されている。
田辺さんの本は、今日京都のブックオフで、田辺さんもこの手のエッセイ集があるのではと探していたら、はたして見つけた。文庫版に初出誌情報は記されていなかったものの、文章から夕刊フジ連載であることがわかる。挿絵は高橋孟さん。内容的にも面白そうだ。われながら鋭い嗅覚だと自画自賛
なお調査の過程で、夕刊フジについては、昨年、20年間にわたり同紙の編集に携わった馬見塚達雄氏の回想記『「夕刊フジ」の挑戦―本音ジャーナリズムの誕生』*2(阪急コミュニケーションズ)という本が上梓され、そこに「読者をつかんだ連載エッセイと小説」という一章があることがわかった。編集者の側から夕刊フジ連載エッセイのことが語られていると推測され、山藤挿絵本を「研究」するうえで大きな参考文献となるかもしれない。要チェックである。
夕刊フジ連載エッセイを「研究」することにした以上、現状も知っておくべきと、今日久しぶりに同紙を買ってみた(120円)。これまで同紙を買ったのは一、二度しかなかったはずで、いずれも競馬の検討のためだった。
さていま連載エッセイを見ると、曜日ごとに担当者が違っている。毎日100回連続(ただし土日休み)というのは、さすがに負担が大きいゆえだろうか。泉麻人(月)・齋藤孝(火)・花田紀凱(水)・なかにし礼(木)・椎名誠(金)という豪華メンバーである。泉さんの連載は、たしか講談社文庫の『地下鉄の友』『地下鉄の素』などもそうであったと記憶する(挿絵は蛭子能収さん)。長いこと連載しているのだ。いま同書が手もとになく確認できないが、いずれ確認してリストに加えなければならない。
とにもかくにも、ひとまず先日掲げた山藤挿絵本はわずか10日で集めきってしまった。あとはゆっくり読むだけ、である。嬉しいような、気抜けしてしまったような複雑な気分。

*1:単行本のタイトルがつまびらかでない渡辺淳一さんのものは除外。

*2:ISBN:4484042134