真夜中にミステリでも…

女を逃すな

小林信彦さんの『夢の砦』(新潮社、→1/2条1/3条)を読んでから気になっていたのは、都筑道夫さんの長篇第一作『やぶにらみの時計』光文社文庫都筑道夫コレクション《初期作品集》 女を逃すな』*1所収)だった。この作品については、書友ふじたさんによるとびきり刺激的な一文があって(id:foujita:20040715)、私も読みたくなったのである。
それでは『夢の砦』と『やぶにらみの時計』がどうつながるのか。都筑さんは、ミステリを読む楽しみのひとつに、「作中にえがかれた風俗を味わう楽しさ」があるとして、そんな風物詩としての興味を副次的魅力として盛り込み、本質的な魅力として「アクロバティックな論理の展開」をそなえた小説を構想する。それが『やぶにらみの時計』だった。
ふじたさんも紹介されているが、『やぶにらみの時計』の執筆意図を都筑さんはこう語る。

論理で解決しようとする態度が、主人公にあるスリラーを書くことにして、ストーリイをまとめていたころ、東京に珍しく大夕立があった。昭和三十五年九月一日の夜だ。まとまりかけていたストーリイには、その夕立を発端にして、二十四時間以内に事件を終わらせることが――同時に一九六〇年の東京風俗を、九月二日に集約してえがくことが、もっとも効果があるように思われた。(前掲文庫版所収「三一書房版『やぶにらみの時計/かがみ地獄』あとがき」)
かくして『やぶにらみの時計』は、昭和35年9月2日午前9時10分にはじまり3日午前2時30分に終わる物語として書かれた。昭和35年=1960年といえば、同じく『夢の砦』もまた、60年から62年にかけての東京風俗を描くことをテーマのひとつとして構想された小説なのである。
そんな共通点を念頭に『やぶにらみの時計』を読むと、都電やトロリーバスといった往時の交通機関、盛り場の喫茶店や酒場、そして「戦前の建てかたなので、家と家との間には、ひとの通れる隙間が、かならずある。庇あわい、といういまはわすれられた言葉が、ここではまだ通用しそうだ」(60頁)といった路地裏、泥んこの横丁などなど、モノクロームの東京風景が脳裏にイメージされるのである。
そしてもちろん「ハイライト」も。60年6月に発売されたばかりのこの煙草を、『夢の砦』同様『やぶにらみの時計』も60年の風物詩として書き込むことを忘れていない。
電話ボックスを出ると、きみは、額の汗をふいた。歩きだす気力もない。乾ききった目を、きょときょと動かす。TOBACCOと白抜きした看板が、赤く目立った。その先に、そば屋の暖簾がゆれている。きみはハイライトをひとつ買って、そば屋へ入った。(39頁)
いま引用した文章にあるように、この作品は珍しく「きみ」という二人称体で書かれている。ある朝目ざめると自分が自分でなくなっていた…という不可解な発端と不可分の絶妙なスタイルだ。もっともこの二人称体は、新保博久さんの巻末解題によれば、ミステリー界では一つの系譜をなしてきたもので、さほど珍しくはないという。多和田葉子さんの『容疑者の夜行列車』もそうらしい(かつて「読まずにホメる」で取り上げたが、いまだ読んでいない)。私が本書を読んで真っ先に思い浮かべたのは、イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』*2ちくま文庫)であった。
ひと癖もふた癖もある登場人物たちの間で交わされるお洒落な会話にすっかり惹き込まれ、ぐいぐいと引っぱられながら読み進めているうち、止まらなくなり、いつしか自分も登場人物が乗り込む「タクシイ」に同乗して東京の町をドライブしているような錯覚に襲われた。町のイメージは、音羽通りを護国寺の山門に向かって車を走らせ、左折してそのまま道なりに進むと左側にあらわれる雑司ヶ谷墓地の闇。いまではその通りの上には首都高池袋線が走っているが、60年当時は空が広かったのだろう。
寝床に入ってもなお本を閉じることができず、こうなったら最後まで読んでしまえと一気に読み終えた。気づいたら家族は皆すやすやと寝息をたてている。家族が寝静まった真夜中、ひとり興奮しながらミステリを読み耽るというシチュエーションも悪くない。