三十代後半男だって悩むのだ

熱球

年末年始はたいていだらだらと過ごす。食べて、寝て、本を読む。変化がない。ところが今年はそれに少し変化が加わりそうになった。昨年末、中学時代の同級生から往復はがきが届いた。クラス会の知らせだった。最初男女二人の幹事の名前を見たときは「?」だったけれど、徐々に思い出し、懐旧の情にかられた。中学卒業からなにせ20年以上経っている。思い出すのに時間がかかるのも無理はない。
案内が届いたのは、暮れも押しつまった、クリスマス前後の時期だった。実家も一度引っ越し、東京の住所がわからなかったので、地元に住む妹に訊ねてから案内を出したため遅れたとの由。行きたかったけれど、開催日があいにく東京に戻る日にあたっていた。もう一日早ければ、と臍をかむ思いで欠席の返事を出さざるをえなかった。
とはいえ、私は人付き合いがいいほうではないので、いまも連絡を取り合っている中学時代の友人はなく、気安く話せるような友達はそれほど多くない。いざクラス会に出たとして、彼ら彼女らとどのように挨拶を交わし、会話したらいいのか、あだ名で呼んでいた友人をどう呼べばいいのか、考えると多少億劫にもなったのである。
この年末年始はそんな思いを心に抱いたこともあり、東京に戻ってから、「帰郷小説」と銘打たれた重松清さんの長篇『熱球』*1(徳間文庫)を手に取ったのは、自然な流れだったろう。
本作品の主人公は、重松さんの他の作品と同じく30代後半の男である。38歳、東京の出版社で雑誌の編集をしていたが、会社がテレビ会社に買収されたのに嫌気をさし辞めて失業中。妻は女子大に勤めアメリカ移民史を研究する研究者。一年間の予定でボストンに留学することになった。小学五年になる一人娘は、母親についてアメリカに行くのではなく、父親と日本で留守番することを選択した。
妻が研究者で、仕事には旧姓を用い、自立志向があってついには一人で海外留学する。そんな行動様式によって上の世代との軋轢が生じる。この人物設定は、似たような環境にある私にとりとてもリアルに受けとめられた。あまりに図式化した対立構図かもしれないけれど、よくあることなのかもしれないなあ。
失業中の主人公は、妻の留学中山口県にある実家に帰ることにする。母親は前年に急死し、実家には老いた父が一人暮らし。母は、一人っ子の長男家族と暮らすことを切望し、息子の意向を聞かず実家を二世帯住宅に作りかえた直後、帰らぬ人になってしまった。
失業と再就職、女性の自立、嫁姑問題、子育て、転校した娘に対するイジメ等々、現代的な、そして「重松的」なテーマが本書でもたくみに組み合わされている。主人公は元高校球児で、地元の進学校の野球部のエースだった。ツキに恵まれ夏の県予選で決勝に進んだものの、戦わずして負けた。このあたりにはストーリー展開と組み合わさって複雑な事情が絡んでいるので、これ以上は説明しないことにする。
主人公は地元の閉鎖的な人間関係を嫌い、高校卒業と同時に東京に出た。郷里に戻らないつもりだった。たまたま家族の環境の変化で一時的に帰郷したものの、やはり郷里の空気にはなじめない。地元に残っている野球部の仲間と接するなかで、父親との関係、亡くなった母親の思い、妻の仕事のこと、娘の学校のこと、そして自分の再就職のこと、地元に残るか、東京に戻るか、悩みながら自分のこれまでの生き方や家族のあり方を見直してゆく。
今回は涙がとめどなく流れてくるということこそなかったけれど、結末近く、こんな父娘の会話に胸が熱くなった。自分の子供たちも将来こんなことを思うときがくるのだろうか、と。

「ねえ、お父さん」
「うん?」
「あたしってさあ、東京で生まれたじゃん? ってことは、ふるさとも東京になるんだよね」
「ああ……」
「周防はお父さんのふるさとだけど、あたしのふるさとってわけじゃないんだよね」
理屈では、そうなる。
だが、離れることが寂しい町は、そのひとにとってのふるさとなのだとも思う。(321頁)
30代後半という年齢は、男にとっては、親の病気や死、育っていく子供との関係、それにともなう妻との関係、仕事の上での立場など、わが身にさまざまな変化が起こってくるような年齢だと言えよう。そこに「郷里」という要素が絡むと、様相はさらに複雑になる。そんな事態に直面している30代後半男性の心の浮き沈みを丁寧に描写する重松作品は、同世代たる私にはどれもずしんと重く響いてくるのである。