違和感への共感

ここに幸あり

中野翠さんの新著ここに幸あり*1毎日新聞社)を読み終えた。
本書は『サンデー毎日』人気コラムの2003年11月-04年11月分をまとめたものである。私は中野さんのこのコラムが大好きだ。けれど、とくに同誌を毎週買ったり、立ち読みして読むほどではない。そればかりかこれまでこのシリーズの単行本を新刊として買ったことがない。数年後文庫化されたとき買って読んだり、古本で手に入れて読んだりするにとどまっていた。
中野さんのコラムはその時々の社会問題に触れることが多いから、過去の出来事に関する中野さんのコメントを読みながら、「ああ、そういえばそんなことがあったなあ」と思い出しつつ、その出来事の起きた年と、コラムを読んだ時点での数年間の時間の間隔を思いやり、その出来事の風化のしかた、あるいは論じられかたの変化を知るという楽しみを味わっていた。
中野さんは「あとがき」で2004年をこんなふうにふりかえっている。

編集作業の中で、今年どんな事件や事故があったかを書き出していたら、それだけで、ちょっと気分が滅入ってしまった。
たしかにそのとおりだと思う。昨年は「気分が滅入」るような事件に出くわすたび、「この事件に対し、週刊誌の連載コラムで中野翠さんや小林信彦さんはどんなふうにコメントするだろうな」と想像をめぐらす機会が増えたような気がする。だから、昨年起きた事件について、数年先に文庫化されたときまで中野さんのコメントを待つということができなくなってしまったのである。
昨年の出来事のなかで、もっとも中野さんの反応を知りたかったのは、イラク人質事件と「自己責任」論についてであった。人質の第一報を得たあと、中野さんはこう書く。
書きにくいことをあえて書くが……当初、家族の方たちの中に政府を批判し、自衛隊撤退を強く望む発言が多かったのには驚いた。気持が動転した身内としては自然なことかもしれず、同情はしたが、違和感も感じた。(118頁)
「違和感」の中味は、「ああ、今は若者ばかりではなく年輩の人たちも私的な世界ばかりなのかなあ。公的な意識は稀薄なのかなあ」ということだという。私もあのとき、政府を批判して自衛隊撤退を声高に叫ぶ家族に強い「違和感」を感じた。だから中野さんがこのように書いていることは、自分の心のありどころが決して突飛ではなかったと安堵したのである。
ただ、世論はそこから人質となった三人に対する「自己責任」論へと転回してゆく。私の気持ちも、あのときの「違和感」をけろりと忘れ、三人への感情的な批判へとねじ曲がってしまった。ところが中野さんはさすがに違う。プロの物書きらしく、自分の感じたこと書いたことにとても正直で、強い責任感を持っている。次の回で前回の発言を客観的に見直し、反省している。
「国」「政府」「官庁」などの公権力を批判さえしておけば、自分を反権力で知的な自由人――と思っているような人のことを、私は日ごろから嫌悪しているので、ついつい、そういう人たちのイメージを記者会見家族の姿に重ねてしまい、批判めいたことを書いてしまった。家族の人たちは動転する中で周囲の政治的演出に振り回されていたらしいということが、だんだんにわかって来て、今では気の毒に思っている。(123頁)
こういう書き手だから、中野さんは信頼できるのだ。
この中野さんの似非リベラリストに対する嫌悪は他の箇所でも表明されている。イチローと新庄を同一次元で比較し、イチローの真面目さより新庄の軽いノリを評価する「インテリ」に対し、自分を新庄がわの「反権威」というポジションに置きたがっている「ある種の(リベラル志向)優等生の陥りやすい思考回路じゃないだろうか」(236頁)と批判する。
私はリベラルな考え方自体嫌いではないけれど、こうしたリベラルな考え方を振りかざす人間がどうも好きになれない。自分のそんな心の動きは「保守反動」というのかなあと思っていたが、まあそんな大げさに名づけなくとも、中野さんのように「違和感」のレベルで表現できることなのだろうと納得した。「違和感」を言葉で表現できるかどうかが才能の差なのだろう。
その他中野さんの「違和感」に共感した事柄として、芥川賞金原ひとみ綿矢りさご両人が受賞したときの、金原さんの父親に対する批判、アテネオリンピックのさいの集団的熱狂に対するアンビヴァレンツがある。プロ野球再編問題に対するコメントもしごく真っ当だ。
世の中の問題に「違和感」を感じ、それをうまく表現できないで気持ちが宙ぶらりんでいるとき、第一にやるべきは中野さんの意見に耳を傾けることなのかもしれない。