各論から総論へ
鹿島茂さんの『絶景、パリ万国博覧会』*1（河出書房新社）が出たのは、元版奥付を見ると1992年12月のこと。購入後すぐ読んだと記憶するから、あれから12年か。現代資本主義を彩るさまざまな現象・事物のルーツを、ナポレオン三世の第二帝政期における1867年パリ万博に追究してゆく本書を興奮しながら読んだものだった。
この本にかぎらず、鹿島さんは19世紀フランスの政治・社会・経済・文化を総合的にとらえ、追いかけつづけている。政治史とか、経済史、文化史といったカテゴリーにとらわれないダイナミックな視点が特徴である。
新著の『怪帝ナポレオン3世』*2（講談社）は、パリ万博を主催したナポレオン三世の評伝である。よく考えてみると、いまあげた『絶景、パリ万国博覧会』はもとより、『新聞王ジラルダン』*3（ちくま文庫）でとりあげられたジラルダンは、ナポレオン三世の好敵手だし、『デパートを発明した夫婦』*4（講談社現代新書）は、第二帝政期に生まれたデパートの物語である。
つまりこれまでの著書は、19世紀フランス・第二帝政時代史の「各論」であり、その総論という意気込みで書かれたのが『怪帝ナポレオン3世』だと言える。十数年にわたり、この時期をテーマにフランス社会のありようを営々と追いつづけ積み上げた鹿島さんに敬意を表したい。鹿島さんはすでに仏文学者という肩書では収まりきらなくなっている。歴史家と言うべきだ。
鹿島さんの旧著を読んだ立場からいえば、読むたび第二帝政期を学んでいたに違いないわけだが、情けないことにさっぱり憶えていない。総論たる本書の記憶が薄れぬうち、あらためて旧著を読み返せば理解度が増すに違いないけれど、読み直すまでの気力もない。
それにしても、本書を読めば読むほどナポレオン三世という人物は不思議な魅力をそなえていると感じる。そもそも労働者（庶民）の生活条件の改善という左翼的な考え方を前面に押し出した独裁者ということから矛盾している。低家賃の共同住宅を建設するなど、この当時ではかなり先進的な福祉政策を行なっており、その先に、オスマンを起用した名高いパリ改造がある。本書の中でもこのパリ改造の諸政策を論じた第六章「パリ大変貌」がもっとも面白く感じられた。
貧困の巣であった都市空間に徹底的に手を入れ、インフラを整備して貧困を掃討する。新しい都市計画はいきあたりばったりではなく、将来をしっかりと見据えたものであり、このとき作られたインフラが21世紀の現在でも使用されている（たとえば下水道）のには驚く。
さらにそうした都市改造を命じるにいたったナポレオン三世の立場の指摘も鋭い。19世紀のパリに対して旅行者が抱いた印象は好ましくなかった。「というのも、パリは中世の町並みがそのまま残る前近代的な都市であったばかりか、そこに、収容限度をはるかに超えた民衆が住みつき、息苦しい、人口過剰の町となっていたから」
（243頁）だ。
ナポレオン三世は、少年時代第一帝政の崩壊とともにフランスから追放され、パリに対する印象は薄かった。つまり彼はパリという町を旅行者の印象として眺めていたという。生活者ではなく、旅行者としてパリに接したからこそ、あの大改造が実行されたのだ。何だか明治維新後幾たびかおとずれた江戸−東京の変貌を想起してしまうが、当然この二つの歴史的大都市の変貌の間は、改造計画における将来展望の有無という大きな溝で隔てられているのは言うまでもない。
陰謀好きにして稀代の好色家、これまで人格的には「バカ」としか規定されず、マルクス主義史観からはマイナスの評価しか与えられなかったナポレオン三世の個人的な性格を客観的に分析し、その施政期にフランスの近代社会の基礎が築かれたという説を積極的に推し進めた本書の価値はすこぶる大きいのではあるまいか。
いま、ナポレオン三世の性格を客観的に分析したと書いたけれど、その結論は「わからない」の一言に尽きる。複雑怪奇、測りがたい人物という意味だ。さきの左翼的思想もそうだが、イタリア解放を掲げ自らを暗殺しようとした外国人の言い分を認めイタリア解放戦争を始めてしまう独裁者の不思議（第七章参照）。
ところで『絶景、パリ万国博覧会』の元版は3800円もした高価な本だった。むろんそれに見合った内容と、造本も交換価値としてのアウラをそなえている素敵な本である（だから文庫版ではそのアウラが不足しており読む気が起こらない）。本書『怪帝ナポレオン3世』はページ数はそれをはるかに超え、用紙も良質で図版の収録数もひけをとらない豪華本であるにもかかわらず、2800円と意外に安い。版元の底力の違いかもしれないが、（文庫本は別にして）書物は意外に物価の影響を受けないものであることがわかる。
*2:ISBN:4062125900／書名にある「3世」の数字は正確にはローマ数字だが、機種依存文字の恐れがあるのでアラビア数字で代用する。
