ひょっとして初めて?

娼婦の眼

昨日触れた「すこぶる上等な短篇集」とは、池波正太郎さんの『娼婦の眼』*1講談社文庫)のことである。読み終えるのを惜しみつつ、味わって読んだ。
この年末年始、実家近くのブックオフで本書を入手した。タイトルにもあるように、赤線廃止後の娼婦、すなわち「私娼」を主人公に据えた連作短篇集で、時期は赤線廃止(昭和33=1958年)の数年後、昭和30年代後半に設定されている。つまりは現代小説ということになる。
池波さんの現代小説として書店でよく見かけるのは『原っぱ』(新潮文庫)である。興味はあるのだが、入手するに至っていない。池波さんの本分たる時代小説(「鬼平」や「梅安」など)に目を向けず(むろん関心がないわけではない)、こうした脇筋のところに惹かれてしまうのは私の悪い癖だ。いや、「大坂の陣的読書法」をとる私としてはこれこそ正攻法なのかもしれない。
私の持っている池波さんの著書は、『食卓の情景』『散歩のとき何か食べたくなって』『男の作法』『むかしの味』『池波正太郎の銀座日記〔全〕』『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)、それと去年読んだ『映画を食べる』(河出文庫、→2004/10/9条)がすべてだ。一見してわかるように、小説は含まれていない。
あれっ、いま気づいたが、としたら『娼婦の眼』は私が初めて読んだ池波さんの小説ということになるのか。果たしていいことなのか、そうでないのか。本書を読んだことで、時代物も含む池波作品全体にいいイメージを抱いたのだから、いい効果があったと言うほかない。
娼婦というとどうしてもマイナスのイメージがつきまとうが、この短篇集にはそんな雰囲気が微塵もない。黒岩竜太さんの解説の文章を借りれば、ここに登場する娼婦たちは、彼女らに相手を斡旋する業者(俗に言う「ポン引き」)との間に上下関係があるのではなく、「共同経営者同士であり、相互扶助の形態」を取る「高級娼婦」ばかりである。一回の単価で言うと、大企業の大卒新社員の初任給とほぼ同額。
黒岩さんは、物語に描かれる娼婦たちには、「社会の、それはまた男の従属的存在であることを拒否し、男に伍して生きようとした戦後女性の精神、その生きる姿勢に、当時の高度経済成長の上昇期の時代精神が投影されている」とする。
斡旋業者として、本書収録の短篇いくつかに共通して登場する人物に、大阪の〔エルム〕というクラブのバーテン堀井がいる。彼は株をやったり、妻に喫茶店を経営させるなど手広く事業を展開する裏で、高級娼婦斡旋も行なう若い男という設定だ。彼は自分の抱える娼婦たちにふさわしい相手(多くは一流紳士たち)をあてがい、最終的には結婚相手を見つけたり、相談にのってやったりする。彼女たちの幸せのためそうすることこそ、斡旋業者としての責任だと考えているような男である。

〔売春〕という語感は、暗い、じめじめした、陰湿なものをふくんでいるのだが、堀井バーテンが動かす女たちのように価額が大きければ大きいほど、世にいう男女の(悪徳)も明るさとたくましさを兼ねそなえてしまうことになる。(「娼婦たみ子の一年」)
本書のまなざしは、売春行為に対し暖かい。言い方が悪ければ、否定的ではない。むしろ女性の自立という観点で、その一方法としてありうる可能性を小説というかたちで提示している。だから話が暗くなりえない。登場する女性たちはいずれも前向きでたくましい。暖かく、生きる勇気が湧いてくるような人間賛歌になっている。
たとえば次のような一節が感銘深い。各篇ともこうした人間に対する認識に支えられているから、面白い作品になっているのだろう。
男と女のめぐり合いほど、嬉しくて哀しくて、悲劇的で、喜劇的で……こんな不思議なものはないと、三井は考えるのだ。(「今夜の口紅」)
古い新しいと騒ぐことも、それは饅頭のうす皮みたいなもので中味の餡は昔も今も変らない。人間の本性が百年や二百年で変ろう筈はない。いや、何千年もの昔から、人間の本性というものは、あまり進歩? してはいないような気もする。(「娼婦万里子の旅」)
ストーリーや人物設定も、一篇一篇が工夫されていて、大仕掛けというわけではないものの、「こうきたか」と驚き楽しみながら読み進ませるものだった。読む者の度肝を抜くようなあざとさではなく、「現実にもありうるかもしれぬ、でもやはり小説的だなあ」といったバランス感覚は見事。
小学校のときの教師と教え子が斡旋者と被斡旋者として出会う「今夜の口紅」、互いに姿が見えない暗闇で交わり決して声も出さないことを条件に斡旋を依頼した人物と、そこにあてがわれた娼婦との数奇な運命「娼婦すみ江の声」、しつこいほどの潔癖性の男と、彼をヒモにする娼婦の物語「娼婦の揺り椅子」、力士と娼婦の腐れ縁「巨人と娼婦」、男のような妹がいて、しかもオカマの男を同居させることになった俳優を主人公に、彼らの人間関係をユーモラスに描く「乳房と髭」、求婚されたので娼婦であることを打ち明けたところ相手の怒りを買い、破談になったものの、彼の母親に気に入られてしまう女性を待ち受ける意外な結末「ピンからキリまで」等々、どれもが考え抜かれたストーリーになっている。
だから、数行読んだだけでもすぐに小説の世界に入り込むことができたし、本を閉じ電車を降りたときには、上質な作品を読んだときの満足感に満たされているのである。宮部みゆき『淋しい狩人』以来の、網棚の荷物を忘れそうになるような電車本だったと言えようか。
もし本書が、娼婦(売春)をテーマにしており、しかも否定的でないという理由で絶版になっているのならば、非常にもったいない話であると言わざるをえない。講談社文庫の財産であり、むしろ講談社文芸文庫に入れてしかるべき香気高い作品であると主張したい。