血をサラサラにする「ほ」

星三百六十五夜 冬

今年の冬はめっぽう寒い。
などと言うと、首をかしげる人がいるかもしれない。例年とくらべとりたてて「厳冬」と言われるほどの寒さではない(今のところ)のに何事か、と。
私の職場は昨年4月に法人化された。勤務時間延長やら、競争努力やら、予算削減やら、いろいろなところにしわ寄せがきている。予算削減ということでこの冬直接的な影響をこうむっているのが、中央一括管理だったスチーム暖房が停止されたこと。各部屋固有の暖房器具で代替するように通達された。といっても、私の職場は貴重史料のある都合上ガスストーブは使えないから、エアコンを主暖房器具とし、補助暖房器具として、セラミック・ファンヒーターや足元暖房パネルを慌てて用意する始末だ。
これで一気に電気使用量があがったから、情けないことに部屋のブレーカーが落ちてしまった。電源を食うプリンターを使うときは、暖房をいったん切るようにと、またのお達し。いっぽう私の職場は関東大震災直後の昭和初年にできた堅牢な建物で、部屋のあるフロアはとりわけ天井が高い。閉所が苦手な私にとって、この天井の高さが好きなのだが、冬は逆に部屋が暖まらなくて困ってしまう。
部屋ばかりでなく、書庫も冷蔵庫のようだ。書庫に入ると心臓が縮みあがるような寒さをおぼえる。もとより書庫にエアコンはなく、夏は蒸し暑くてとても中にいられないのだが、冬はまだましだった。ところが今年は寒くて凍りついてしまう。出入り口がつながっている閲覧室のスチーム暖房の暖気が書庫も多少暖めてくれていたのに、今年はそれが及ばなくなったためだろう。書庫に入らねば何もできない仕事なのに、真夏ばかりか真冬にも居づらくなった。どうしてくれよう、イライラがたまる。
仕事を終えたある夜、気の進まぬ会議に出席しなければならなかった。さぼるということができない性分だし、ちょっとした責任まで負っているので、どうにも抜き差しならず、夜の10時近くまで拘束される。9時を過ぎるとだんだんイライラして血圧が上がってきた。血もドロドロになってきたような気がする。ドロドロ血は心臓から身体の各所に送られ、蝕んでゆくのだろうか。心なしか胸や頭が痛くなってきたみたいだ。
でもその日は、このドロドロした血が、家に着くまでにサラサラになったような体験を味わった。それもこれも「ほ」のおかげだ。
ひとつ目の「ほ」は、「本」。いま電車ですこぶる上等な短篇集を読んでおり、数行読んだだけで物語に惹き込まれ、厭な現実を忘れる。電車を降りる頃になると爽快な気分になっているのだ。この本については、また読み終えたとき書くことにしよう。会議でドロドロ化したわが血液は、この短篇集を読むことで半分くらいサラサラに戻っただろうか。
電車を降り寓居に歩く途中夜空を見上げると、星空が広がっている。10時台に夜空を見上げるということがそれほどないので、しばらく上を向きながら歩いていた。ふたつ目の「ほ」は「星」だ。
オリオン座がある! その下にはいちだんと光り輝くシリウスがある! オリオン座の向かって左、シリウスの上方にも光る星がいくつかあった。こんな星空を眺めていたら、なかばサラサラに戻っていた血が、すっかりもとどおりになったばかりか、おつりがくるほど爽やかな気分で玄関までたどりつくことができたのだった。
帰宅後さっそく野尻抱影の本を取り出し、夜空に瞬く星たちを調べる。『星三百六十五夜 冬』*1(中公文庫BIBLIO)の1月10日のくだりのタイトルは「冬の大曲線」という。

夜、煙草を買いに出た。まだヒューヒュー風が吹いていて、星のきらめきはすっかり深冬である。東南に高いオリオン、それにつづくシリウスのどぎつい光は正に荒星という他はない。黒く凍てた空の壁がぴりぴり震えているようだ。
けれど私の目はすぐ、東の木星の大きな光に引きつけられた。相変らず双子座にいるのだが、左かしぎに四度半の間隔で並んでいるカストールとポルックスの直線と一文字になっていて、それを真下にのばすと、小犬の一等星プロキオーンにとどき、さらに自然とゆるいカーブを描いて、淡い銀河を越え、シリウスにとどく。この曲線の雄大なのには思わず眼をみはった。(68-69頁)
そうか、オリオン座の左側に点々と明るい星が弓のようにつながっているのは、双子座のカストール・ポルックス、それに小犬座のプロキオン、大犬座のシリウスだったのか。しかも双子座辺には木星も見えるとは。
来週も、再来週も、同じような会議が予定されていてうんざりしていたけれど、帰り道これら「冬の大曲線」を星空にのぞめることを思い、乗りきろうではないか。