坪内・小林・色川・生島ときて

読書三昧

坪内祐三さんのまぼろしの大阪』*1(ぴあ、→10/10条)の影響で生島遼一の本を読みたくなったのは私だけでなかった(id:foujita:20041125)。仲間がいて嬉しい。
坪内さんは前掲書のなかの「生島遼一のエッセイ集が六冊本棚に並んだ」で、若い頃は「それなりに愛読し」たものの「薄味過ぎる気がして」、はまるところまでいかなかったが、いまあらためて読み直したらすっかり好きになってしまったと告白している。

私が大人になったからなのだろうか。その文章の味――薄いけれどもしっかりとダシのとれた(元手のかかった)味――のおいしさが堪能出来るようになっていた。(143頁)
そうして生島遼一のエッセイ集が次々と紹介される。坪内さんの文章は、生島遼一のエッセイ集への強力な牽引力を持っている。
ところで先日近所の古本屋で小林信彦さんのエッセイ集『日本人は笑わない』*2新潮文庫)を手に入れた。同書の目次を眺めていたら、無性に色川武大さんのエッセイ集を読みたくなり、積ん読の山を取り崩し探索をはじめた。その過程でこの文庫本の元版を古本で入手していた(むろん未読)ことに気づき愕然としたのは、まあよくある話。
積ん読の山を漁り色川さんのエッセイ集を見つけた副産物として、「こんな本も買っていたなあ、読んでみようか」という本を数冊見つけ出し、色川さんの本をさしおいてそちらから先に読むことにした。昨日触れた和田誠さんの『ことばの波止場』はこのうちの一冊。ついで篠田一士さんの『読書三昧』*3晶文社)。
積ん読の山から掘り当てた篠田さんの本をめくったら、目次に「生島遼一の文章」というタイトルを発見したことが、読む大きなきっかけとなったのだった。本書は「犀の本」という縦長で薄目の本のシリーズ中の一冊で、読書に関するエッセイ、軽めの文学論が収められている。「軽め」とは言っても、どうもいまの私の頭は文学論を受けつけなくなっているらしい。気軽に書いた読書エッセイばかり印象に刻まれた。
生島遼一の文章」で篠田さんは、生島の著書『日本の小説』に強い影響を受けたとし、さらに最近のエッセイ(坪内さんが手に入れられたような本)の文章について、次のように書く。
なにもかも言いつくしているくせに、そう見せないところが味噌だが、そこをもう少しくわしくとか言おうものなら、無言の微笑がかえってくることを覚悟しなくてはなるまい。(132頁)
このあたり坪内さんの言う「薄いけれどしっかりとダシのとれた(元手のかかった)味」と通じあう。
篠田さんは博覧強記の英文学者だ。その巨躯が秘めるパワーがそのまま読書する力につながっている感じ。本書冒頭の一篇「手にした本を読み耽る」では、「原則として、本屋へは入らないことにしている」という衝撃的な一文で書き始められている。どういうことかと言えば、「一日でも早く目指す本を見たい、手に取りたいという思い」で本屋を駆け回った昔のような気力がもはや尽き、「手近なところにうずたかく積まれた未読の本をこなすのに精いっぱい」だから。おお、私がまさに当の篠田さんの本を手に取った状況に似ているではないか。
わざわざ本屋へゆかないことにしているのは、そこで、また、新しい本を見付け、読みたいものが、否応なくふえてゆくのを防ぐのが、なによりの理由で、ともかく、読まなくてはならない本が、身のまわりに、あまりにも多すぎるのである。(10頁)
すぐれた外国文学者の日本語は、なぜこうもため息がでるほど素敵なのだろう。外国語を自国語に移しかえるときに、よりふさわしい言葉を選ぶという作業をつねにこなしている人らしく繊細、流麗で、明快な文章の流れに惚れ惚れとしてしまう。たとえばヘンリー・ミラー旅行記を紹介した次の文章。
いたって人間くさい本だが、汗くささや黴くささは微塵もない。カラッとして、清朗の気がみなぎっているのは、ミラーの書くものすべてに共通した特色だが、ほかのどの本にも見当らぬ、まぎれもない香気というのか、霊気のようなものが立ちこめているのは、やはり、この本の全篇を通じて、たえず見え隠れしているギリシアという土地の効験なのだろう。(27頁)
こう語る文章それ自体も清朗で香気が立ちこめている。こんな言葉が使えるようになりたい。