夢の「大寺さん全集」

小沼丹全集第三巻

小沼丹全集』第三巻*1(未知谷)をようやく手に入れた。
この全集については、第二巻の一部を読んだとき若干の感想を書いた(→8/31条)。そこで私は、小沼作品のうちでもいわゆる“大寺さん物”が好きだとしたが、ご承知のとおり「“大寺さん物”でない短篇も、たんに主人公の名前が大寺さんでないだけにすぎない」から、わけへだてなく好ましいのである。
さて第三巻収録の単行本のうち、未読なのは『藁屋根』一冊だったため、とりあえずこれだけ読む。全8篇のうち、大寺さん物3篇、ヨーロッパ旅行物4篇、その他1篇という構成。大寺さん物は相変わらず大事件が起るでもなし、かといってまったくの平板でもない日常生活の微妙な起伏がユーモレスクな筆致で描かれる。
ヨーロッパ旅行物は第二巻所収『椋鳥日記』の系譜を引く。『椋鳥日記』自体とても面白いロンドン滞在記だったが、『藁屋根』収録の4篇も味わいとして引けをとらない。こちらは「旅のなかの旅」(by山田稔)物というべきか、ロンドンからドイツ・オーストラリア・スイスへと旅したときの旅行記である。
残る1篇、タイトルは「竹の会」。『藁屋根』のなかではこの短篇がもっとも印象深かった。大学の恩師谷崎精二の思い出話である。酒場や研究室での谷崎との交わり、また谷崎を囲む会として知友後輩たちが集まった「竹の会」の出来事が、他の諸篇と変わらぬ調子で綴られている。
小沼丹による谷崎精二ポルトレは以下のとおり。

谷崎さんは町のなかで生れ育つて、だから町が大好きで、生活とは町のなかにしか無いものと思つてゐたやうな所がある。空襲が激しくなつて来たから、疎開なさらないんですか? と訊いたら、しません、答は簡単であつた。(60頁)
谷崎の訃報を知り、弔問に訪れた帰りの豪徳寺駅「プラツトフオオム」の外れの先に見つけた小径の情景。行き交う人びとを眺め淡々と記したスケッチに過ぎないのだけれど、小径の閑かな雰囲気の後ろがわに、恩師を喪った悲しみいっぱいのまなざしが汲み取られ、読みながらしびれてしまう。
どう云ふものかその静かな路が気に入つたから、穏かな冬の陽の落ちてゐる路を暫く見てゐた。上の方に鞄を持つた痩せた中年男が現れたと思つたら、せかせかした足取で歩いて来て忽ちガアドの下に消えて行つた。口を動かしてゐたのは、独言を云つてゐたのかもしれない。ガアドの下から石焼芋と書いた車を牽いた爺さんが出て来て、此方に背中を向けてゆつくり路を上つて行つて、曲つたと思つたらもう見えない。少し間を置いて、子供連のお内儀さんが歩いて来て、二人は愉しさうに話しながらガアドの下に隠れてしまつた。その后は誰も通らない。(87頁)
これで全集第一巻所収の初期作品を除き、大寺さん物が登場する『懐中時計』以下の中後期作品をあらかた読み終えた。せっかくだから、このなかから大寺さん物だけ拾いあつめ「大寺さん全集」を編んでみるのはいかがだろう。こうやって大寺さん物だけ選り分けて読めば、「たんに主人公の名前が大寺さんでないだけにすぎない」と思っていた他の短篇との違いがわかってくるかもしれないし、やっぱり同じだという結論に落ち着くかもしれない。
以下、「大寺さん全集」の諸篇である。全12篇。ちくま文庫あたりで出してくれないかしらん。『懐中時計』『埴輪の馬』は講談社文芸文庫で読めるので、未文庫化作品は7篇である。

  • 「黒と白の猫」(『懐中時計』、第2巻)
  • 「タロオ」(同上)
  • 「蝉の脱殻」(同上)
  • 「揺り椅子」(同上)
  • 「古い編上靴」(『銀色の鈴』、第2巻)
  • 「銀色の鈴」(同上)
  • 「藁屋根」(『藁屋根』、第3巻)
  • 「眼鏡」(同上)
  • 沈丁花」(同上)
  • 「鳥打帽」(『木菟燈籠』、第3巻)
  • 「入院」(同上)
  • 「ゴムの木」(『埴輪の馬』、第3巻)