読書は隙間趣味である

恥ずかしい読書

目の前に一冊の本がある。それを手にとって読む。これで「読書」という行為が成り立つ。誰でもいつでもできるから、普遍的行為と言える。
ところがそのいっぽうで、読書はすぐれて個人的な行為でもあるだろう。読書好きの数だけ読書の流儀があるし、読書好きであるほど、このやり方、ここの場所、こういう時間に読むといった頑固なこだわりを持っている。個人的というのはそういう意味で、言いかえれば保守的ということにもなるだろう。
面白いのは、そうした個人的、保守的な性格であるはずの読書行為なのに、読書好きは、他人がどうやって本を読んでいるのだろうという覗き見の欲望、もし自分にもやれそうなら他人の流儀も取り入れてみたいといった願望も少なからず持っていること。読書とはかくも矛盾を内包している。
永江朗さんの『恥ずかしい読書』*1ポプラ社)を読んでそんなことを考えた。本書は永江さんの読書生活が披瀝されていて、上のような覗き見願望を満たしてくれるだけでなく、あげられている本に対する読書欲をそそられるような読書エッセイでもあり、読書の現場を取材した刺激的なルポルタージュでもあり、永江さんによる読書生活主義宣言でもある。
きわめて個人的な読書生活を告白する内容であるにもかかわらず、読んで面白いのは、読書行為がはらむ矛盾をうまく逆手にとって、読書好きの心理をつくツボを抑えているからだろう。そうした攻撃的精神の書であるのに書名が「恥ずかしい読書」とは、これまた見事に矛盾を言い表わしている。
むろん読書はあくまで個人的行為だから、永江さんが提言する読書法と相容れないものもないわけではない。
「歯磨き読書」。永江さんはゆっくり時間をかけて歯を磨く間に、哲学書のような普段読まない難しい本を読もうと言う。でも私は歯磨きに時間をかけないから駄目だ。
「強化年間」。今年は○○を読もうというテーマを掲げ、仕事で読む読書の合間にゆっくり対象本を読む。私の場合、「強化月間」を設定したことはあるけれど、「強化年間」とは思いつかなかった。一年という長いスパンでじっくり読む。これはグッド・アイディアだ。
文章を読まず適当な場所に線を引きながら「読み」、線を引いた言葉を浮き上がらせて思わぬ効果を誘引させる「線引き読書」は、本に線を引けない私には無理だ。無意味無目的にただやたらに文章を書き写す読書、これはやってみたい。
買った本のカバーや帯をすぐ取り除いて裸にしてしまうことで、カバーの裏や表紙のデザインに思わぬ発見をする。…うん、いいかもしれない。目に悪いので電車では本を読まない。…目に悪くとも、貴重な読書時間がなくなるのは痛いから、真似しない。
永江さんは「忙しいことと本を読まないことは関係ない」と断言する。同じ主張がひとつの本で二度出てくるから、よほど言いたいことなのだろう。

ほんのちょっとした一瞬に本を読む。ホームで電車を待っているとき。電車の中。喫茶店で打ち合わせの相手が来るまで。訪問先で相手を待つあいだ。わずか二、三分でも、けっこう本は読めるものだ。(219頁)
かくして読書とは「隙間趣味」と言えよう。通勤退勤、仕事の合間、食事の前後、散歩のとき、トイレなどなど。読書をする機会と時間は豊富にある。あるのに「読めない」というのは、また別の理由が考えられるはずだ。本書は、個人的行為を書きながら読書の本質を浮き上がらせる。
著書を読み「この人の真似をしてはいけないな」と思う書き手がいる。代表的なのは坪内祐三さん。悪い意味で言っているのではない。ファンであるゆえに、真似したくなる。でも素人が下手に真似をしようとすると身の破滅をまねきそうだ。坪内さんの本を読むたび、読書欲・購書欲・蒐書欲がうずくけれど、「いけないいけない」と気持ちを抑える。
はじめて永江さんの本を読んだが、本読みとしての永江さんは坪内さんの対極にある人だなと感じた。そしてこれは本読みとは無関係だが、お洒落だし飄々とした雰囲気が文章と写真からうかがえる。