落語・映画・歌舞伎エピソードの宝庫

昭和芸能秘録

川本三郎さんの『映画を見ればわかること』キネマ旬報社、→11/12条)を読み、猛烈な読書欲をそそられた本があった。道江達夫『昭和芸能秘録―東宝宣伝マンの歩んだ道』*1(中公文庫)である。川本さんはこの本について、「映画、演劇、落語など、知られざるエピソードが多く、実に面白い本」(「山本周五郎のことなど」、51頁)と書いている。
あわててジュンク堂のサイトで在庫の有無を確認したら、2冊在庫とあった。品切でなかったのは幸いだ。もっとも当のジュンク堂に行く余裕がなく、品切でなければ他の書店にもあるだろうと軽く考えていたが、なかなか見つからない。大学生協書籍部にないのはまああり得る話だとしても、この間立ち寄った大書店、たとえば東京堂書店三省堂書店にすらない。中公文庫の「み」の箇所にあるのは、三島由紀夫宮尾登美子宮部みゆき宮崎市定という面々のみ。だんだん胸騒ぎが大きくなってきた。
とはいえ依然としてジュンク堂には行けない。気を揉むなか、先日の横手出張のさい立ち寄ったブックオフで出会ったのは僥倖だった(→12/12条)。しかも2冊も並んでいる。ジュンク堂並みではないか。思わず2冊とも買おうとしたが、一冊の値段が高いので(500円)諦めた。
著者の道江さんは敗戦直後東宝に入社し、もっぱら宣伝畑を歩みながら最後は東宝名人会のプロデューサーを勤めた。東宝入社後の足跡は、まず演劇部演芸課で東宝名人会の制作、次にエノケン・ロッパ一座上演の頃の有楽座幕内課、そして製作宣伝課という映画宣伝を経て、帝劇・日劇などの芝居宣伝を担当する演劇宣伝課長となり、東宝演芸場支配人で定年を迎える。
だから本書には、落語をはじめとする笑芸、歌舞伎や新劇といった芝居、さらに黄金期の東宝映画の裏話がたくさんつめこまれている。もともと道江さんは芝居の裏方志望で東宝に入社し、裏方に徹したということで、堂々たる「秘録」となっている。印象に残るエピソードは枚挙にいとまがないほど。
芝居関係で言えば、東宝入社前、敗戦直前の時期に学徒動員を覚悟し、日の丸に寄せ書きしてもらう人を考え、十五代目羽左衛門・六代目菊五郎・初代吉右衛門三人に絞って、それぞれの家を訪ねサインしてもらったという挿話がある。本書開巻劈頭に語られる話で、いきなり圧倒される。三人が三人とも快くサインしてくれるのも、ちょっといい話だ。
後年帝劇開場記念で二代目吉右衛門襲名披露興行を出したときの演目「勧進帳」のエピソードも面白い。帝劇の花道はまっすぐでないうえ、舞台から鳥屋口(花道奥の役者の出入り口)までが上り坂という、歌舞伎にとっては好ましくないこしらえになっていた。初日、弁慶を演じた八代目幸四郎は、最後の飛六法の引っ込みのさい、息絶え絶えになって鳥屋口にたどりつき、こうつぶやいたという。

「なんで、こんな風に造ったんだ。これじゃあ、千秋楽までもつかな、一体」(265頁)
映画で言えば、東宝所属の監督であった成瀬巳喜男黒澤明両監督の作品に関する話が満載で読みごたえがあった。成瀬監督では、あの名作「めし」の宣伝を担当したという。成瀬巳喜男は温厚篤実、謙虚な苦労人でまた円満に常識人、上ッ面の流行を追うような小器用な性質でない。いたずらに激せず、また冷えもしない健全中庸な人柄で、かつまたフェミニスト(149頁)なんてポルトレを読むと、また成瀬映画を見たくなる。
「めし」での、原作者林芙美子と俳優の配役をめぐるやりとり*2。芙美子は原節子が女主人公にふさわしくないと難色を示して、中北千枝子を推し、駄目なら京マチ子をあげたという。著者没後あらためて夫林緑敏と交渉のすえ当初の予定どおりとなった。原節子の「めし」はかなり面白かったので、これはプロデューサー藤本真澄の勝ちだろうと思う。
さらに原節子の相手役だった上原謙がこの作品で演技開眼した話や、この生活感のある映画が火種となって原節子結婚の噂がマスコミを駆けめぐった話など、このあたりは読み出したらやめられなくなる面白さ。
川本さんは山本周五郎原作の映画の話題で本書を引き合いに出している。本書を読むと、道江さんは大学以来の友人木村久邇典さんを媒介に山本周五郎と付き合いがあったらしい。山本周五郎の、「曲軒」の号にふさわしい頑固一徹な、でも反面で暖かみのある人柄が語られ、また山本作品を読みたくなる。それと同時に、山本作品と縁が深い黒澤明監督の作品も見たくなった。本書がいよいよ私に黒澤作品への扉を開けてくれたという感じ。
演芸に関する挿話にも事欠かない。演芸場のプロデューサーとして目撃した落語協会分裂騒ぎの裏側や、東宝名人会の開催、東宝演芸場の廃止やこれと関連しての芸人たちとの交友の話(三平、談志、馬生)はたくさんありすぎどれを紹介していいか迷うほど。そのなかでひときわ印象深いのは、入社直後に担当になった寄席の情景だ(「第一章 伝統の東宝名人会へ」)。
道江さんは、池袋演芸場*3と早稲田のゆたか亭という、東宝と契約している二つの寄席の番組作りをやらされた。とくに早稲田ゆたか亭の話は貴重だ。「都電早稲田の終点に近く、神田川沿いの川より一段低いところに」あった寄席で、台風による豪雨で停電したにもかかわらず、芸人も客も集まり、蝋燭をともしながら盛り上がったという話がしっとりと素晴らしい。ああした場所にかつて寄席があったのかという新鮮な驚きと、「こんなにも大衆は娯楽に飢えていたのか。戦争が奪った傷跡を、つくづく考えさせられた」という現場の人間としての述懐の重み。
無声映画の弁士出身で、無声映画の保存に尽力した松田春翠に紙幅が割かれているのも嬉しい。彼の活動母体マツダ映画社が私の寓居と同じ町にあることを知って以来、気になっていたのだった。道江さんは東宝名人会のなかで松田春翠の語る無声映画を「色物」として挟むという、ユニークな試みも行なっていた。
心に残るエピソードをあれこれ並べあげるときりがなくなってしまう。これだけのエピソードの宝庫、せめて人名索引があればもっと身近でありつづけるのにと思うと、ちょっと惜しい。

*1:ISBN:4122038766

*2:「めし」は作者の急逝で未完となった作品だが、映画化の話は生前からあったという。

*3:現在とは別の場所にあったという。