東京大阪間七時間半の旅

七時間半

フィルムセンターの特集「逝ける映画人を偲んで2002-2003」で、獅子文六の長篇「七時間半」を原作とした映画「特急にっぽん」(川島雄三監督)が上映されるというので楽しみにしていた。
映画を見る前に原作を読んでおこうと思っていたが、結局読み始めたのはまた直前になってから。鴎外「雁」と同じ轍を踏んでしまった(→10/16条)。『獅子文六全集』第九巻(朝日新聞社)に収められている原作を半分まで読んだところでタイムアップ。今日見てきた。
今夏三百人劇場での渋谷実監督特集のおり、映画と前後して「バナナ」「やっさもっさ」などの原作を読み、相変わらずの出来のよさに続けて「夫婦百景」に手を出した挙げ句、途中で挫折してしまった。いくら獅子文六であっても、立て続けに同じ作家の作品を読むことは苦手らしい。
数ヶ月ぶりに読んだ獅子文六作品、やはり面白かった。本作は、東京―大阪を結ぶ特急「ちどり」を舞台とする。主人公矢板喜一は食堂車のコック助手。この男のキャラクターは『自由学校』の五百助に代表される獅子文学に特有の大らかな性格の持ち主。彼を間に挟み、食堂車のウェイトレス・車内販売組と客室乗務員(ちどり・ガール)の女性の間で恋の鞘当てが演じられる。食堂車のウェイトレスは食堂車を担当する食堂会社の社員、客室乗務員は鉄道会社の職員という違いがあり、彼女たちには性格の良さと品の良さという二つの美徳が割りふられ差別化され、対立構図をとる。
物語は12時30分に東京を出て、20時に大阪に着くまでの「七時間半」に展開される。三角関係、二つの女性集団の対立に、三角関係のうちの二人の女性を狙う乗客複数が絡んで喜劇的様相を呈する。こんな筋立てが滅法面白い。
「テーマ小説」とでもいうのだろうか、獅子文六は毎作毎作意表をつく舞台を設定し、その世界に生きる人間たちを自由自在に動かす。取材が行きとどいているから、物語を追うだけでなく、自分のまったく知らない世界の細部を知る喜びも加わってお得感がある。現代にこういう小説家がいないから(たんに私が知らないだけかもしれないが)、実に新鮮なのだ。
「七時間半」も他の獅子作品同様、期待を裏切らない。特急列車の車掌事務にはじまり、食堂車運営の裏側が克明に描かれる。食堂車を使うことがないまま、新幹線から食堂車が消えてしまった。そんな時代の人間だからこそ、私は内田百間も愛した食堂車に憧れを持つ。そして本作品を読み、ますます食堂車への憧憬をつのらせた。
ウェイトレスも客室乗務員も、東京―大阪の片道乗車が一日のすべての仕事になる。昼出発の便のために午前中から準備を始め、半日かけて終点に到着し、その日はそこに泊まる。翌日はその逆方向の便に乗って仕事をするわけである。乗る方も大阪まで七時間半かかるからのんびりしたものだった。七時間半も乗るのは疲れるに違いないけれど、そういう緩やかに流れる時間にひたるのも一つの選択肢としてあっていい。
さて映画は、主役がフランキー堺、彼と相思相愛のウェイトレスに団玲子、そこに横やりを入れようとする美人乗務員に白川由美フランキー堺は言うまでもなく、丸くて可愛らしい団玲子にツンツンした感じの白川由美という配役は適役。白川由美に言い寄るスケベなチューインガム会社社長(原作は違う)に小沢栄太郎。これもぴったり。さらに団玲子を学者の息子の嫁にと狙う中年婦人に沢村貞子。これまた絶妙。
配役が適役揃いで原作も前半までは申し分のない出来なのだから、映画が面白くないはずはなかろう、しかも川島雄三監督だしと、過度の期待を抱いて見たところ、これが意外に「凡作」だった。たしかに映画も前半、名古屋あたりまでは面白い。ところが後半、はしょったうえにB級のドタバタ喜劇に流れてしまうのが残念。映画は新幹線ではない「こだま」が舞台で、東京―大阪間が六時間半となっていた。
帰宅してから原作の後半を読みついだところ、原作もまた後半、名古屋を過ぎてパワーダウンしてしまうことがわかった。映画はこのあたりをドタバタ(原作も多少その要素がないわけではない)にして補おうとしたのだろう。それでもカバーしきれなかった。
テーマ的にも、「七時間半」に起こった出来事を一つの長篇に仕立てるという趣向も見事だと思うのだが、時間・空間を限定してしまったところが、逆に獅子文六的想像力を広げることを阻んでしまったような気がする。でも映画も見ることができたし、それを機会にまた一作獅子作品を読めたのだから、それだけで十分おつりがきた。次は、全集の同じ巻に収録されている『箱根山』の映画を見たいなあ。原作もその機会が訪れたときに読むことにしよう。
ちなみに「七時間半」は昭和35年1月から9月まで『週刊新潮』に連載され、映画化されたのは翌昭和36年のことである。獅子文六作品の人気度がわかるし、これほど映画と相性のいい作家も稀なのではなかろうか。