出会いと読みのタイミング

東京夢幻図絵

ある一冊の本と出会うこと、読むことというのはタイミングも大きな問題となる。著者・タイトルこそ記憶に刻みつけられてはいるものの、欲しい、読みたいというほどの関心があるわけでないので買わずにいた本が、あるきっかけで突然欲しくなり、いざ探すとなかなか見つからない。古本好きにとってありがちな話だ。
私にとって、都筑道夫さんの連作短篇集『東京夢幻図絵』*1(中公文庫)がまさにそうした本に該当する。古本屋バイト時代何度も手に取ったはずだし、東京に来て、積極的に“東京本”を集め、読むようになってからも何度か目撃した。しかしながらそれほどの食指が動かず、そのまま買わないできたのだ。
ふじたさん(id:foujita)の影響で都筑さんの本に興味を持ち出してから、なぜこの本をもっと早く買っておかなかったかと悔やんでも遅い。なかなか出会えず歯ぎしりしていたところ、運よく荻窪ささま書店で入手できたのだった。しかも300円と格安の値段で。
もっとも、なかなか出会えなかったと言ったが、私が都筑作品を読み出したのは今年なのだから、せいぜい数ヶ月の話。古本は時間をかけて待てばあちらからやってくるものだと思う。
読んでみて、なぜもっと早く読まなかったか、なぜこんな面白い本をこれまで無視しつづけてきたのか、自分に腹が立った。とはいえ、たんなる東京本への関心に端を発し、あれこれと明治・大正・昭和の東京風俗に関する本に触れたことで、この分野に対する一定の理解力がついたからこそこの本を楽しめたと思えば、いまだからこそ楽しめたのだと居直ってしまおう。
昭和初年頃、東京の早稲田や牛込、白山、向島、根津、九段といった場所を舞台にした思い出話が一人称の独白体で綴られる「情話」である。エロ・グロ・ナンセンスと言われたこの時代の薄暗さ、またこれと背中合わせにある祭礼や寄席といった空間での喧噪がリアルに伝わる。何となく薄ら寒くて、妖艶で、ノスタルジックな味わい。

これらのノスタルジア小説を書くときに、昭和のはじめごろ、近松秋江長田幹彦がつかった情話という言葉が、たえず、私の頭にあった、いまはわすれられた作家のわすれられた作品群の呼び名こそ、ノスタルジア小説にふさわしい、と思った。(文庫版あとがきに引用された「元版あとがき」)
先日ある方と、神保町の青空古本市の話になった。京都では百万遍知恩寺下鴨神社での大規模な古本市があるが、東京で似たようなスタイルの古本市を探せば、早稲田穴八幡くらいとのこと。いわば“無縁の場”での古本市というわけだが、このとき私は思いつきで、神保町にも近いし、靖国神社はいかがでしょうと申し上げた。
現実性があるかどうかはともかく、本書を読むと、靖国神社例大祭での縁日が活写されており(「九段の母」「道化の餌食」)、祝祭性から言ってもまんざら的はずれではないような気がする。網野史学ではないが、市は無縁の場こそふさわしい。
本書ではほかにも、こんにゃく閻魔の縁日や(「白山下薄暮」)、小日向環国寺の縁日(「ガラスの知恵の輪」)の賑わいが描かれていたりする。また、玉の井バラバラ事件(「墨東鬼譚」)、お茶の水の全裸美人惨殺事件(「浪花ぶし大和亭」)、白木屋火災(「花電車まがいの女」)など、この時期の世相を象徴する事件を巧みに取り込んでいる。「花電車まがいの女」などは、白木屋の女店員の話やソバ屋二階での逢引といった、井上章一さん的テーマが散りばめられ、ぞくぞくする。
文庫化にあたり、元版にない一篇が加えられた。それが「道化の餌食」で、分量的にも他の短篇の1.5倍ある。といっても50頁に満たないのだが、それだけの短篇に生首が大盤振る舞いで「変格物」探偵小説的凄味を感じさせる点、元版収録の諸篇とは異質である。九段の野々宮アパートが登場したり、要は江戸川乱歩的なのだ。乱歩へのオマージュなのだろうか。
作者のねらいはノスタルジア以外に、風俗記録ということがある。(…)さいわいに近年は、昭和初年の写真集なぞが刊行されているが、動かない写真を目で見ただけでは、わからないことも多い。そうした庶民の生活風俗を、言葉でくわしく説明しておきたい、というのが、私のねらいの大半だった。(同前)
このねらいは大当たりだと思うし、小説としても楽しめるのだから、読み甲斐があった。読み終えたばかりだけれど、いずれまた再読したいと思わせる本である。