仏教小説の官能

はぐれ念仏

寺内大吉『はぐれ念仏』*1(学研M文庫)を読み終えた。
本書は学研M文庫今月の新刊である。しかしなぜ突然『はぐれ念仏』なのだろう。以前同文庫から、第28回直木賞受賞作である立野信之『叛乱』が出た(気になりつつ未購入)。本書は第44回(1960年下半期)直木賞受賞作である表題作*2を含む4篇が収められた中短篇集だ。過去の直木賞受賞作で、未文庫化の佳品を文庫に入れていこうという方針なのだろうか。それとも『叛乱』とはまったく無関係で、売れれば引きつづき寺内作品を文庫化しようという計画なのだろうか。訝しみつつ購入し、読んでみた。
それではなぜ私は本書に興味を持ったのか。またまた登場吉田健一『大衆文学時評』集英社版著作集第15巻所収)なのである。この本は昭和36〜40年に読売新聞夕刊に毎月連載された時評をまとめたものだが、その第一回昭和36年4月分の一番最初にあげられているのが、寺内の「不老長寿」であり、それがこの文庫に収められているから嬉しい。
吉田健一は『大衆文学時評』を「読める作品に出会ふといふのはこの頃の所謂、文学と付き合つてゐる限り、滅多にないことである」と書き出し、次のパラグラフで寺内作品を登場させる。

文学であることから出発してゐるものは勿論、文学であつて、我々はさういふ作品を材料に与へられて始めて廻りくどい解釈抜きで文学に就て語れる。例へば、文学が人間を描くものであることは我々にとつても常識になつてゐる筈でありながら、「オール讀物」四月号に載つてゐる寺内大吉氏の「不老長寿」などは人間を描くといふ種類のことを通り越して、そこには人間がゐる。(7-8頁)
吉田健一が「人間を描くといふ種類のことを通り越して、そこには人間がゐる」とわかったようなわからないような表現で褒めたこの作品の主人公は104歳の高僧。自分の後継者である81歳の弟子(!)から「何のために生きるのか」と質問を向けられ、それが遠回しの隠居勧告であることを悟る。自分でも長生きしすぎたと自覚した和尚は、それまでの生活をひっくり返し死に近づこうと目論む。すなわち早寝早起きを止め、酒を飲み、博打を打ち、女と寝る。104年間童貞を守りとおした和尚が妻に選んだのは17歳の娘。彼女と交わった瞬間の描写が度肝を抜く。
安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と温存され続けてきたものが今おおらかに流露するのである。(211頁)
直木賞受賞作の「はぐれ念仏」も、高潔の誉れ高かった名僧が、宗門の危機を回避するために後輩の僧侶たちから地区代表の宗会議員立候補を勧められ、まさか受けまいという予想を裏切り立候補に乗り出す。そこから彼が踏み入れる俗臭にまみれた金権選挙の世界。すっかり俗物に変じた僧は、酒や女にも手を出し、聖から俗へと住む世界をくるりと反転させる。
坊さんは高潔たることがあらまほしいが所詮俗世間の人間という、わたしたちがよく味わう現実のさらに上手をゆく聖と俗の弁証法に、ただ呆然とさせられる。
「はぐれ念仏」以上に、僧侶の世界を超越して人間存在の深淵をのぞかせるのが中篇「月影の里」である。主人公はカフェーの女給あがりで、信州の田舎のお寺に嫁入りした。そのお寺の住職たちは脇役にすぎず、彼女の上を通り過ぎてゆくのみ。結局お寺は柱たる彼女に守られてゆく。田舎の一寺院を舞台にした大河小説のおもむきで、読み終えたとき、体のなかを寒風がよぎる。
収録作品中もっとも発表時期が古い「梵唄鈔」は、明治時代、僧侶のなかでも声明を仕事とする声明師たちの物語で、谷崎潤一郎作品のような芸術至上主義的色合いが濃く、しかも官能的頽廃的雰囲気も濃厚にただよう。
官能的なのは「梵唄鈔」だけでなく、私が一番に推したい「月影の里」も負けていない。主人公は住職たる夫に丸裸にされ、盥の中にしゃがめと命じられる。夫は誕生仏のポーズをとった妻に一升瓶の酒をふりかけ、「灌頂だ。灌頂だ。聖水灌頂だ」と、彼女の乳房や太股を舐めまわす。時には哄笑を誘うまでの破天荒なユーモアと、エロスが渾然一体となった仏教・僧侶小説。私にとって新鮮なジャンルだった。

*1:ISBN:4059003239

*2:豊田健次『それぞれの芥川賞 直木賞』(文春新書)によれば、このときの同時受賞は黒岩重吾「背徳のメス」で、笹沢左保星新一・小堺昭三らの作品が候補作だった。