グロテスクへの感性

奇想の系譜

辻惟雄さんの『奇想の系譜 又兵衛―国芳*1ちくま学芸文庫)を読み終えた。名著の誉れ高いことは聞いていたので、文庫化されたとき(今年9月)にすぐ購い、積ん読の山の一番上に置いていつでも読める状態にしていた。そのときは先日見た千葉市美術館での岩佐又兵衛展のことをまったく知らなかった。いま読み終えて、知らずに読み終えて展覧会を見るか、知ってから予習のために読み展覧会に行くか、はたまた展覧会を見て読むのがいいか、いずれがベスト・パターンだったのか、結論に及んでいない。
本書は岩佐又兵衛狩野山雪伊藤若冲曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳という、既製の美術史の流れからははみ出た近世の「奇想」画家を取り上げ、その再評価(実際彼らの在世中は埋もれた画家ではなかった)を高らかに宣言した本である。
このうち岩佐又兵衛展を見、本書を読む前の段階で関心があったのは、伊藤若冲歌川国芳の二人。さらに曾我蕭白も加えうる。蕭白については、赤瀬川原平山下裕二『日本美術応援団』*2ちくま文庫、→3/22条)でその「スゴさ」を知ったのではなかったろうか。
購入直後に読んでいれば、たぶん上記三人の章だけに注目する結果となったかもしれない。それに比べれば、そこに岩佐又兵衛に対する興味が加わり、またそこから本書全体へ目配りしようという気持ちが強まったのだから、展覧会を見てから読んだという順番は良かったような気がする。ただし、岩佐又兵衛についてだけ言うと、やはりちゃんと本書で予習をしていれば、展示作品をもっと味わえたのではないかという後悔がないわけではない。

室町水墨画狩野派、海北派、長谷川派、雲谷派、土佐派などの諸要素が渾然と――というより多くの場合は雑然と――入り混っている。こうした和漢諸流派の折衷をもととした雑種的要素が、彼の絵の大きな特色とされる。(40頁)
という指摘は、展覧会で彼の水墨画風の作品(「人麿貫之像双幅」)を見て抱いた、又兵衛はもともと水墨画がホームグラウンドなのかという疑問を説明してくれたし、彼の貴人の人物描写に共通する特徴として指摘される「豊頬長頤」(いわゆる下ぶくれ)は、絵を見て私も奇妙だと感じつつ、これが当時における貴人像の約束事だと勝手に納得していたから、わが眼はあながち節穴ではなかったわけだ。
また本書では、「山中常盤物語絵巻」や「堀江物語絵巻」について、人を斬り殺す場面において「荒唐無稽といえばそれまでだが、真二つに縦割りされた切り身がつくる奇妙なフォルムには、ぞっとするようなユーモアがあるのだ」(16頁)という指摘がある。「切り身」とは絶妙な表現である。「相当ふざけた悪趣味」とも言い換えられる血腥くてグロテスクな場面は、展覧会でもたしかに印象深くはあったが、その段階でとどまっていた。本書を読んで自分のグロテスクなものに対する感性が麻痺しつつあることを再認識したのである。
さて、若冲蕭白はあらためて自分好みであることを確認したが、今回新たに気になったのは長沢蘆雪だった。師であった円山応挙から破門されたきっかけになったエピソードがいい。
応挙に書いてもらった画手本をそのまま持参して直しを乞うたところ、これはよくないといって少し直された。そこで今度は自分で清書して持っていったら、これでよろしいといわれた。(183頁)
蘆雪の限界は逆に、このように師の画風をあまりにも完璧に身につけすぎたことであると辻さんは論じる。いま見てみると前掲『日本美術応援団』にも蘆雪に一章が割かれていたことに気づいた。この二冊で蘆雪が決定的に私の頭に刻まれた。残された一人狩野山雪もむろん含め、彼ら画人たちの作品は今後も要注目である。