小窓から見る戦争の歴史

切手と戦争

集英社新書今月の新刊3冊について、先に感想を書いた。今月は集英社新書だけでなく、新潮新書も負けていない。内藤陽介さんの『切手と戦争―もうひとつの昭和戦史』*1新潮新書)も面白い。
内藤さんは「郵便学者」として、いまや朝日新聞文化欄でも活躍されている気鋭の研究者である。「郵便学」とは、切手や郵便物から得られるさまざまな情報を組み合わせていくことで、国家や社会、時代や地域のあり方を再構成する学問として、内藤さんによって提唱されているものだ。
こうした視角による著書として手に入りやすいものでいえば、昨年刊行された『外国切手に描かれた日本』*2光文社新書)がある。同書からはすこぶる知的刺激を受け、いささか興奮気味で感想を書いたものだった(旧読前読後2003/4/21条)。
前著は書名のように外国切手がおもな素材だったが、今回の新著は日本や日本が支配下に入れたアジア諸国の切手や消印といった郵便情報を手がかりに、満州事変から昭和20年の敗戦までの戦争の歴史を捉え直すというこころみで、これまた新鮮な驚きに満ちた内容の本だった。「切手という小窓」(「あとがき」)からのぞき見る戦争の歴史は、ともすればテレビといった映像メディアで知る歴史以上に生々しく、わたしたちに訴えかける何かを持っているような気がする。
当時郵便は情報交換の手段として、現在と比較にならないほど重要だったろう。だから、その場面で必ず使用される切手や消印は、情報メディアとしてきわめて重要視され、政治性を帯びていた(もちろん現在でもこうした性格は消えてはいないが)。切手の図柄という最大の視覚効果を持つポイントは当然のこと、消印にもスローガンが刻印され、無意識のうちに国民に戦争意識が刷り込まれる。

このようなスローガン印は、郵便物が宛先に届くまでの間に多くの人間の目に触れることに着目し、郵便物を宣伝媒体として活用するという発想から生み出されたもので、郵便が単なる通信手段というだけではなく、別の次元でもメディアとして機能していることを再認識させてくれる資料である。(15-16頁)
というわけだ。「三〇代以上の読者であれば、おそらく〝郵便番号はハッキリと〟といった標語が入った消印の押された郵便物を受け取った経験をお持ちだろう」(4頁)と例示されると、なるほど消印のメディアとしての効果を実感できる。
切手はそうした近代国家の政治思想が鋭く表面化して一般市民の目にさらされるメディアである。だからそこに国家同士の軋轢が具体的な痕跡をとどめることもある。日本の香港占領後、占領下の香港からの郵便物に貼ってあった日本の切手が、中国側の人間によって切手が黒く塗りつぶされてしまうという例が紹介されている。内藤さんはそこに中国人の民族意識を読み取る。
また逆に、日本が蘭印を制圧したあと、再開された郵便業務のなかで、オランダ女王が印刷された切手の使用が禁止され、女王の肖像が印刷された切手の上に×印や日の丸のスタンプを捺したものが使用されている。国家の意志は、こうしたシンボリックなものに対して敏感に反応する。先の、中国人によって黒く塗りつぶされた切手は、東郷元帥の肖像切手だったそうだから、あるいは風景切手であればこうした行為はされなかったかもしれない。
少し物足りなく思ったのは、従来の戦争の歴史というものが背景にあって、それを「切手という小窓」で眺めてみようという、いわば視角の切り換えに重点が置かれていたこと。そこからもっと踏み込んだ、切手・消印などを媒介に、これまでの歴史を書き換えるような新しい戦中史叙述が本書の随所にはめ込まれていたと思うのだが、それらをもっと強調してもよかったのではないだろうか。たとえば下に引用する記述のように。
国家の指導者たちがある地域の帰属を制度的に変更しても、実際にその地域で生活している人々は、すぐには旧来の生活を全て捨ててしまうわけにはいかない。そんなあたりまえの現実は、こうした郵便物にも刻印されている。(166頁)
本書では、一貫して封筒を「カバー」と呼んでおり、違和感があった。郵便の世界ではそう呼んでいるのかしらんと思い英和辞典で“cover”を引いてみると、「封筒。折って表側にあて名の書ける封書」とあるではないか。もともとカバーには封筒という意味があったのだ。ひとつ勉強になった。
前著『外国切手に描かれた日本』の感想を書いた直後、内藤さんからメールをいただき、同じ学校に勤務しているというよしみで、昼の食事を一緒にしたり、何度かお会いして楽しいお話をうかがう機会があった。生年も一緒なので、僭越ながら「盟友」「同士」というような親近感を抱いてしまう。むろん立場上一読者としての応援団に過ぎないのだけれど、今後も内藤さんのお仕事の展開が楽しみでならない。
本書に数多く掲載されている葉書や封筒などの郵便資料は、ただ切手を集めるという趣味的行為とはまったく違って、探し集めるのが容易でないはずだ。個人蔵なのか、公的機関所蔵なのか(アメリカによって接収されたものもあるという話なので)、博物館所蔵なのか、集め方や所蔵のされ方がどのようなものなのか、今度お会いする機会があったらお聞きしてみたい。