スポーツライティング宣言

スポーツを「読む」

集英社新書新刊の第三弾は、重松清さんの『スポーツを「読む」―記憶に残るノンフィクション文章讀本』*1集英社新書)だ。いまや「大」をつけてもいいほどの重松ファンになってしまったが、小説作品以外のいわゆる「ノンフィクション」の著作は読んだことがなかった。本書が初めて読む重松さんのノンフィクション著作となった。
これまでノンフィクション著作は避けてきた(というと意図的に読まなかったと思われがちだが、そういうわけではない)のに、なぜ本書を購入し、読んだのか。第一に、取り上げられているスポーツライターの人選。第二に、もとより私はスポーツ・ノンフィクションが好きなこと。以上おもに二つの理由による。
本書では五つのパート(カテゴリー)にわけ、そのなかで様々なタイプのスポーツライターが紹介される。いま「スポーツライターが紹介される」と書いたが、本書はたんなるスポーツライター総覧ではない。各ライターのスポーツを捉える切り口を鋭く分析し、その特徴を指摘する。
副題に「文章讀本」とあるように、本書はライター志望者に語りかけるような文体である。要は「スポーツライターになるためには」という講座的内容もあわせもっている。副題に「文章讀本」とあるにもかかわらず、その属性を「あわせもっている」と書いたのは、重松さんの執筆意図はそこにはないだろうと感じたからだ。
おそらく意図的にだろうが、読者(多くはライター志望者)に語りかける口調からときおり脱線し、ライターの個性・方法論を、その人がスポーツについて書いた文章から明らかにするという作家論の様相を呈す。さらにその論じられるライターを通して、スポーツライティングとは、ひいてはスポーツとはといった本質的な問題にも切り込む意欲をのぞかせる。本書は、スポーツライター論に見せかけた重松さんの戦略的で野心的な「スポーツライティング宣言」なのかもしれない。
先に私はスポーツ・ノンフィクションが好きと書いたけれど、そう熱心に読んでいるわけではない。山際淳司さんや沢木耕太郎さん、玉木正之さん、二宮清純さんのような理知的なライターが好きなのだ。もちろん彼らはすべて本書で取り上げられている。その他、関川夏央近藤唯之、佐瀬稔、阿久悠虫明亜呂無金子達仁小松成美佐山一郎最相葉月、夏坂健、増島みどり井田真木子、草野進、ターザン後藤吉田豪ホイチョイ・プロダクションらが取り上げられている。まだまだこれでもすべてでない。
一時期山際淳司さんや近藤唯之さん(さらに加えれば草野進さん)の著作を好んで読んでいた頃を思い出した。本書では、こんな近藤唯之再評価がなされていて、往年の近藤ファンとしては心をグイッとつかまれた。

一編が短い列伝形式が多いこともあって、読み物としての人気はあっても、ノンフィクション作品としての評価を受けづらい近藤唯之の著作だが、いつの日かベスト選集が編まれることを期待したい。(131頁)
この将来編まれるかもしれない「ベスト選集」を読めば、玉置宏古舘伊知郎のとも通底する名調子に乗って、古き良き時代のプロ野球選手の伝説とともに、近藤唯之の文章をこよなく愛してきた〝昭和のサラリーマン〟の姿も浮かび上がってくるはずである」とも書いている。
この部分を読んで得心した。私のスポーツ・ノンフィクションに対する向き合い方は「昭和」的なのだと。たとえば山際淳司論はこう結論づけられる。
山際淳司の文体や手法は、一人の書き手の個性を超えて、〝80年代〟という汎用性と限界とを持っていたのだから。(21頁)
私のスポーツ・ノンフィクション好みは、昭和・80年代という地点に踏みとどまるものだったのだ。だから、たとえば現在活躍中のライター(金子達仁増島みどりら)の本(およびその論調)に馴染めないのか。
ところで先に本書で取り上げられているライターを並べたさい、意図的に省いた集団がある。第二部で取り上げられている集団だ。ここでは、本業がスポーツライターでなく、作家である人びとが取り上げられている。開高健寺山修司村上春樹三島由紀夫山口瞳村松友視村上龍海老沢泰久夢枕獏高橋源一郎ノーマン・メイラーら。彼らが余技のように書いたスポーツ・ノンフィクションを論じながら、実は正統な作家論にもなっており心動かされる。
たとえば山口瞳の一章で重松さんは、山口瞳「ひとが見過ごしてしまうところを見てしまい、ひとがムダだと思う箇所に面白さを嗅ぎ取ってしまう」という点に着目し、「スポーツの行間をこよなく愛する書き手」だとする。さらにそんな山口瞳の方法が実は「編集」なのだと喝破し、この方法は「男性自身」などのコラムで鍛え抜かれた技術であると指摘する。
別の箇所で山口さんは、「まずなにより自分の立ち位置を明らかにする。書き手の顔を見せる。そうすることで責任を持つ」という「フェアな独断と偏見」を持つという、泉麻人坪内祐三佐山一郎という系譜の先に位置づけられている。
何を見、何を見ないか、何を書き、何を捨てるかという「編集」が書き手の姿勢をあらわすことは、本書の他の箇所でも繰り返し説かれている。このことは何もスポーツライティングの世界に限らないだろう。本を読んで、何を読み取り、何を書いて何を書かないかという、自分が毎日のように行なっている営為の反省を迫る一書だった。
最後に。「流行歌のフレーズを文章の随所に響かせながら、勝者よりも敗者の、スポーツ選手そのものよりもむしろ彼になにかを託すひとびとの物語を歌わずにいられないのが、寺山修司なのである」(63頁)といった寺山修司論を読んでいたら、久しぶりに“テラヤマ病”*2の虫が動き始めた。

*1:ISBN:4087202682

*2:旧読前読後2001/11/14条参照。