記憶の古層を掘り起こす

らんぷと水鉄砲

毎日時間に追われ、仕事や生活と無関係なことで頭を働かせる機会が減少するいっぽうである。……などとしみじみ考えることすら、滅多にない。
以前古書ほうろうで見かけ、あまり目にしない本だからと買っておいた(2003年6月、500円)安野光雅三木卓『らんぷと水鉄砲』*1新潮文庫)をふとしたきっかけから読むことにした。本書は安野さんが「手作りの玩具や道具は、年々私たちのまわりから姿を消していく。これを惜しみ、せめて絵にかきとめて置きたいと思って仕事をした」という動機から描いた、懐かしの道具・玩具72葉のリアルなイラストに、安野さんご自身と三木さんが分担して短い文章を添えた画文集である。
読み始めて最初のうちは、あまり感興が沸いてこないので「失敗したかな」と思ったが、読み進むにつれ、自分も子供の頃に使っていたもののいまではあまり目にしない道具・玩具や、それらを手にした状況を思い出してきて、読んでよかったと考え直した。
この本を読まなければ今後しばらく(ひょっとしたら永遠に)思い出さなかったのではないかと言うような、記憶の底に沈んだままになっていた情景が浮かび上がってきたのである。たまにはこうした「モノの記憶」にまつわる本を読み、まるで記憶の古層を掘り起こすように頭を活性化させるのもいいなと、すがすがしい気持ちになった。
たとえば「シュロ箒」(三木)の、「わたしが使ったことのあるシュロぼうきは高ぼうきで、古かったからちょっと腰がよわかったと思う。しかも先の使用者たちのくせがついていて一方にまがっていた」という一節を読んで、たしかにそんな癖がつき曲がってしまい、ほとんど掃除の用をなさなかった箒を思い出したし、そんな箒を使って掃除をしていた小学校・中学校の一シーンが脳裏によみがえった。
「わらじ」(三木)を読んで、小学校の体育館で藁束からわらじを編む体験学習をしたことを思い出した。わらじづくりは意外に楽しかった。「リリアン」「おはじき」(安野)では、男子児童たる私たちもこれらの玩具で遊んだ記憶が掘り起こされた。リリアンなんて、本書を読まなければあと一生頭に浮かんでこなかったモノかもしれない。ことほどさように本書を読んだことによる効用は意外に大きい。
本書の成り立ちは、まず安野さんが絵を描き、そのあとモノに即した文章を書くという順番だったらしい。三木さんは「現在のわたしの生活のなかから消え失せていった品々のことを思いやる機会を得たから」「楽しい仕事であった」と「あとがき」で書く。読み手たる私も、まさに同じ理由で楽しめたのである。
「かまめし」のなかで三木さんは次のようなことを書いている。

釜飯っていうのは、釜ひとつを独占するというところが気に入っているのか。意地のきたないわたしなんか、だれにもうばわれない、と安心感を抱くところがあるらしい。なにしろ焼跡浮浪児の世代ですからね。(126頁)
「焼跡浮浪児」世代でなくとも、釜飯というアイテムに惹かれる人は多いだろう。ただたんに釜で炊いたゆえのおこげが美味しいからというだけでなく、「釜ひとつを独占する」という心性が多くの人を惹きつける原因なのかもしれない。卓見である。